36 / 46
アンドロメダ
しおりを挟む
「……本当に私の留守中、君にはいろんな事が起こるな」
アンは呆れたような感心したような顔で言った。
オルフェとの結婚式まで一週間後にせまった日。帰って来たアンはエウリの自室で自分の留守中起こった話を聞いていた。
「……私のせいじゃない。突然、テュンダやレダ様が来たんだから」
エウリは表情は不機嫌だが所作だけは優雅に紅茶を飲んだ。
「でも、よかったじゃないか。君の主治医が生きていて」
「ええ。まさか私の兄で伯父でレダ様の夫とは思わなかったけれど」
――生きるんだ! あの方の分まで!
ずっと忘れていた。
テュンダ、パオだけじゃない。ハークとの出会いも。
――君は自由に生きるんだ!
アドニスとして生きた二年間、目の前のアンとの出会いだけを唯一忘れたくないなどと思っていた。
亡くなった母やアンだけではない。エウリを大切に想ってくれる人達がいるのに。
(……私は何も見ようとはしなかったのだわ)
考え込んでいたエウリはアンの呟きで我に返った。
「……同じ色の髪と瞳だから、か」
「アン?」
怪訝そうなエウリに、アンはしまったという顔をした後、説明した。
「……君に言ったレダ様の言葉だよ。……弟と同じ色の髪と瞳だからテュンダ様を夫にしたって」
「……家族として愛していると仰っていたわよ」
アンにとって「誰かの身代わり」というのは許せない事なのだとエウリは知っている。
「同じ色の髪と瞳の男性だから夫にする」。
それもまた身代わりにするという事だろう。
確かに、レダがテュンダを夫にしたのは、愛する弟と同じ色の髪と瞳だからというのも理由のひとつだ(最大の理由は父親が誰か分からないお腹の子、ポリュの父親になってほしかったからだろうが)。
「誤解しないでくれ。私はレダ様を批判しているんじゃない。よそ様のご家庭について、どうこう言うつもりはないよ」
アンはそう言いつつ、どこか浮かない顔をしていた。
レダのした事を心底から納得していないのだろうか?
じっと見つめるエウリに根負けしたのか、アンは話始めた。
「……前にも言ったと思うけど、私はこの『アンドロメダ』という名前が大嫌いだった」
確かに、それは聞いた。エウリが自分の出自、秘密を打ち明けた後、アンもまた自分の秘密を打ち明けてくれた時にだ。
「……『アンドロメダ』は、あの方の、あいつの愛する女性の元の名前。それを、あの方にそっくりな娘である私に名付けた」
「アンドロメダ」。
それは、パーシーの生母、ダナエ妃の元の名前だ。
アンの父親ケフェウスは実の姉であるダナエ妃(アンドロメダ)を異性として愛していたのだ。
だが、ダナエ妃(アンドロメダ)は父親の賭博の借金で娼館に売られ、そこで出会った前皇帝と恋に堕ち彼の妾妃となった。
実姉だという事はケフェウスの障害にはならない。……愛する実姉の身代わりとして実の娘を「おもちゃ」にしていた男だ。
だが、皇帝の寵姫となってしまっては、もう絶対にケフェウスの手に入らない。
「名前だけじゃない。私を誕生させた事さえ、あの方の身代わりとしてだった」
エウリは我慢できずに言った。
「……私も前にも言ったけど、アンはアンよ。私の親友でパーシーの従妹で義妹。誰も代わりなどいないわ」
「……うん。ありがとう。それはもう分かっているから大丈夫だよ」
アンは微笑んだ。いつも毅然としている彼女にしては儚げな微笑だった。エウリは、その微笑に母の顔を重ねてしまった。同じ色の髪と瞳以外、アンと母に似た所などないのに。
「……幼い君にとって、お母様だけが世界の全てだったように、幼い私にとって、あんな最低な奴らでも両親だけが世界の全てだった」
幼い子供にとっては、そうだろう。自分に命を与え最初に出会った人間である両親だけが世界の全てになる。
「……父親から、あの方の身代わりしか求められない私にとって、命も名前も自分のものだという実感がまるでなかった」
だから、エウリ(アドニス)と出会った時、あれほど醒めた眼差しで「どこにいても同じで、何も変わらない」と言い放ったのだ。
誕生して三年、彼女にとっての世界は、そうだったから。
父親の愛する女性の身代わりとして誕生させられ、彼女の元の名前を付けられた。
ケフェウスがアンの母親カシオペアと結婚したのも愛する姉に似た娘が生まれる確率が高かったからだ。姉弟だけあってケフェウスもダナエ妃に似ていて、アンの母親もまた彼女と同じ色の髪と瞳、似た系統の顔立ちだったという。
「……あんな最低な屑の下種でも、母は愛していたんだろう。あいつが私にした事を知っても、私をあいつから守るのではなく私を責めて……新しい子が、弟が胎に出来たのを機に、私を人買いに売ったんだからな」
エウリは柳眉をひそめた。以前も聞いた話だが何度聞いても胸糞が悪くなる。アンは詳しい事は言わないが聞くに堪えない罵詈雑言を母親から浴びせられたのは想像に難くない。
「新たに子が出来れば娘がいなくなっても、あいつは気にしないと思ったのだろうが、あいつが欲しいのは子供ではなく、あの方の身代わり。いくらあの方に似ていても、男である弟は身代わりにはなれないからな」
アンは自嘲の笑みを浮かべた。
「……いや、違うな。誰も誰かの身代わりになどなれない。同じ血を持っていても、同じ顔でも、違う人間だ。それを、あいつは最期まで分かろうとしなかった。
結局、あいつは母を殺して憲兵隊に捕まりそうになると自殺した訳だが。聞いた時は悔しかったな。私がこの手で、あいつを殺してやりたかった」
その気持ちはエウリにも分かる。エウリも「あの男」、「父」を自分の手で殺してやりたかったからだ。
いや、分かるなどと言ってはいけないだろう。気持ちの重みが違う。エウリは母の手を汚させてしまった事を悔いているが、アンは自らにされた事に対する屈辱や怒りを永遠に晴らせなくなってしまった事を悔いているのだから。
「まあそれでも、母が私を人買いに売ってくれてよかったんだ。そうでなければ、君やプロイ様、ダナエ様やパーシー様に出会えなかったからな」
アンがエウリ(アドニス)を逃がしてくれた後、先代のティーリュンス公爵プロイトスがやってきて彼女を救ったのだ。
「……出会った頃は、私は結構ダナエ様にひどい事を言ったりした。今思うと本当に申し訳なかった」
ダナエ妃こそが父親が求めていた「アンドロメダ」であり、彼女の身代わりとして父親の「おもちゃ」にされていたのだと気づいたアンは彼女を恨んだのだという。
ダナエ妃のせいではない。父親の身勝手で穢れた想いのせいだと頭では分かっていても、幼いアンは彼女を恨む気持ちを抑えられなかった。
「……アンは悪くない。出会う前なら、あなたにとってダナエ妃は見知らぬ伯母でしょう。恨むのも仕方ないと思うわ」
今自分が味わっている地獄に耐えるために、そうするしかなかった。それが逆恨みだと分かっていても。そんなアンを誰が責める事ができる?
「……うん。ダナエ様もそう仰って私を許してくださった。むしろ『すぐに助けてあげられなくて、ごめんんさい』と謝ってくださった。……あの方は何も悪くないのに。私が勝手に恨んでいたのに。そんな私を捜し出して育ててくださった。あの方には感謝してもし足りない。
だから、今は、あの方の元の名前というだけで、このアンドロメダという名前を誇りに思うよ。あの方が棄てた名前であっても、あいつに、あの方の身代わりとして名付けられた名前であっても。私の名前だ。この名前に恥じない生き方をしたいと思えるから」
誰よりも敬愛した女性の元の名前だから誇りに思う。
その名に恥じない生き方をしたい。
その気持ちは、エウリには誰よりも理解できる。
幼くして亡くした愛する娘の名前を養父母はエウリに名付けた。最初は娘の身代わりとしてだった。けれど、エウリの出自を知っても変わらず名乗る事を許してくれた。養父母の愛情の証だと今では分かる。亡くなった娘の身代わりではない。目の前にいるエウリへの愛情の証だ。
養父母の愛する娘の名前を生涯背負うからには、養父母に対しては勿論、その名の元の持ち主、天国にいる「エウリュディケ」に対しても恥じない生き方をしなければならない。
それが、養父母の養女となり、「エウリュディケ」の名を受け継いだ自分の義務だと思うから。
アンは呆れたような感心したような顔で言った。
オルフェとの結婚式まで一週間後にせまった日。帰って来たアンはエウリの自室で自分の留守中起こった話を聞いていた。
「……私のせいじゃない。突然、テュンダやレダ様が来たんだから」
エウリは表情は不機嫌だが所作だけは優雅に紅茶を飲んだ。
「でも、よかったじゃないか。君の主治医が生きていて」
「ええ。まさか私の兄で伯父でレダ様の夫とは思わなかったけれど」
――生きるんだ! あの方の分まで!
ずっと忘れていた。
テュンダ、パオだけじゃない。ハークとの出会いも。
――君は自由に生きるんだ!
アドニスとして生きた二年間、目の前のアンとの出会いだけを唯一忘れたくないなどと思っていた。
亡くなった母やアンだけではない。エウリを大切に想ってくれる人達がいるのに。
(……私は何も見ようとはしなかったのだわ)
考え込んでいたエウリはアンの呟きで我に返った。
「……同じ色の髪と瞳だから、か」
「アン?」
怪訝そうなエウリに、アンはしまったという顔をした後、説明した。
「……君に言ったレダ様の言葉だよ。……弟と同じ色の髪と瞳だからテュンダ様を夫にしたって」
「……家族として愛していると仰っていたわよ」
アンにとって「誰かの身代わり」というのは許せない事なのだとエウリは知っている。
「同じ色の髪と瞳の男性だから夫にする」。
それもまた身代わりにするという事だろう。
確かに、レダがテュンダを夫にしたのは、愛する弟と同じ色の髪と瞳だからというのも理由のひとつだ(最大の理由は父親が誰か分からないお腹の子、ポリュの父親になってほしかったからだろうが)。
「誤解しないでくれ。私はレダ様を批判しているんじゃない。よそ様のご家庭について、どうこう言うつもりはないよ」
アンはそう言いつつ、どこか浮かない顔をしていた。
レダのした事を心底から納得していないのだろうか?
じっと見つめるエウリに根負けしたのか、アンは話始めた。
「……前にも言ったと思うけど、私はこの『アンドロメダ』という名前が大嫌いだった」
確かに、それは聞いた。エウリが自分の出自、秘密を打ち明けた後、アンもまた自分の秘密を打ち明けてくれた時にだ。
「……『アンドロメダ』は、あの方の、あいつの愛する女性の元の名前。それを、あの方にそっくりな娘である私に名付けた」
「アンドロメダ」。
それは、パーシーの生母、ダナエ妃の元の名前だ。
アンの父親ケフェウスは実の姉であるダナエ妃(アンドロメダ)を異性として愛していたのだ。
だが、ダナエ妃(アンドロメダ)は父親の賭博の借金で娼館に売られ、そこで出会った前皇帝と恋に堕ち彼の妾妃となった。
実姉だという事はケフェウスの障害にはならない。……愛する実姉の身代わりとして実の娘を「おもちゃ」にしていた男だ。
だが、皇帝の寵姫となってしまっては、もう絶対にケフェウスの手に入らない。
「名前だけじゃない。私を誕生させた事さえ、あの方の身代わりとしてだった」
エウリは我慢できずに言った。
「……私も前にも言ったけど、アンはアンよ。私の親友でパーシーの従妹で義妹。誰も代わりなどいないわ」
「……うん。ありがとう。それはもう分かっているから大丈夫だよ」
アンは微笑んだ。いつも毅然としている彼女にしては儚げな微笑だった。エウリは、その微笑に母の顔を重ねてしまった。同じ色の髪と瞳以外、アンと母に似た所などないのに。
「……幼い君にとって、お母様だけが世界の全てだったように、幼い私にとって、あんな最低な奴らでも両親だけが世界の全てだった」
幼い子供にとっては、そうだろう。自分に命を与え最初に出会った人間である両親だけが世界の全てになる。
「……父親から、あの方の身代わりしか求められない私にとって、命も名前も自分のものだという実感がまるでなかった」
だから、エウリ(アドニス)と出会った時、あれほど醒めた眼差しで「どこにいても同じで、何も変わらない」と言い放ったのだ。
誕生して三年、彼女にとっての世界は、そうだったから。
父親の愛する女性の身代わりとして誕生させられ、彼女の元の名前を付けられた。
ケフェウスがアンの母親カシオペアと結婚したのも愛する姉に似た娘が生まれる確率が高かったからだ。姉弟だけあってケフェウスもダナエ妃に似ていて、アンの母親もまた彼女と同じ色の髪と瞳、似た系統の顔立ちだったという。
「……あんな最低な屑の下種でも、母は愛していたんだろう。あいつが私にした事を知っても、私をあいつから守るのではなく私を責めて……新しい子が、弟が胎に出来たのを機に、私を人買いに売ったんだからな」
エウリは柳眉をひそめた。以前も聞いた話だが何度聞いても胸糞が悪くなる。アンは詳しい事は言わないが聞くに堪えない罵詈雑言を母親から浴びせられたのは想像に難くない。
「新たに子が出来れば娘がいなくなっても、あいつは気にしないと思ったのだろうが、あいつが欲しいのは子供ではなく、あの方の身代わり。いくらあの方に似ていても、男である弟は身代わりにはなれないからな」
アンは自嘲の笑みを浮かべた。
「……いや、違うな。誰も誰かの身代わりになどなれない。同じ血を持っていても、同じ顔でも、違う人間だ。それを、あいつは最期まで分かろうとしなかった。
結局、あいつは母を殺して憲兵隊に捕まりそうになると自殺した訳だが。聞いた時は悔しかったな。私がこの手で、あいつを殺してやりたかった」
その気持ちはエウリにも分かる。エウリも「あの男」、「父」を自分の手で殺してやりたかったからだ。
いや、分かるなどと言ってはいけないだろう。気持ちの重みが違う。エウリは母の手を汚させてしまった事を悔いているが、アンは自らにされた事に対する屈辱や怒りを永遠に晴らせなくなってしまった事を悔いているのだから。
「まあそれでも、母が私を人買いに売ってくれてよかったんだ。そうでなければ、君やプロイ様、ダナエ様やパーシー様に出会えなかったからな」
アンがエウリ(アドニス)を逃がしてくれた後、先代のティーリュンス公爵プロイトスがやってきて彼女を救ったのだ。
「……出会った頃は、私は結構ダナエ様にひどい事を言ったりした。今思うと本当に申し訳なかった」
ダナエ妃こそが父親が求めていた「アンドロメダ」であり、彼女の身代わりとして父親の「おもちゃ」にされていたのだと気づいたアンは彼女を恨んだのだという。
ダナエ妃のせいではない。父親の身勝手で穢れた想いのせいだと頭では分かっていても、幼いアンは彼女を恨む気持ちを抑えられなかった。
「……アンは悪くない。出会う前なら、あなたにとってダナエ妃は見知らぬ伯母でしょう。恨むのも仕方ないと思うわ」
今自分が味わっている地獄に耐えるために、そうするしかなかった。それが逆恨みだと分かっていても。そんなアンを誰が責める事ができる?
「……うん。ダナエ様もそう仰って私を許してくださった。むしろ『すぐに助けてあげられなくて、ごめんんさい』と謝ってくださった。……あの方は何も悪くないのに。私が勝手に恨んでいたのに。そんな私を捜し出して育ててくださった。あの方には感謝してもし足りない。
だから、今は、あの方の元の名前というだけで、このアンドロメダという名前を誇りに思うよ。あの方が棄てた名前であっても、あいつに、あの方の身代わりとして名付けられた名前であっても。私の名前だ。この名前に恥じない生き方をしたいと思えるから」
誰よりも敬愛した女性の元の名前だから誇りに思う。
その名に恥じない生き方をしたい。
その気持ちは、エウリには誰よりも理解できる。
幼くして亡くした愛する娘の名前を養父母はエウリに名付けた。最初は娘の身代わりとしてだった。けれど、エウリの出自を知っても変わらず名乗る事を許してくれた。養父母の愛情の証だと今では分かる。亡くなった娘の身代わりではない。目の前にいるエウリへの愛情の証だ。
養父母の愛する娘の名前を生涯背負うからには、養父母に対しては勿論、その名の元の持ち主、天国にいる「エウリュディケ」に対しても恥じない生き方をしなければならない。
それが、養父母の養女となり、「エウリュディケ」の名を受け継いだ自分の義務だと思うから。
応援ありがとうございます!
10
お気に入りに追加
201
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる