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【完結話】或るシンガーソングライターの憂鬱
#1 ギターの敵
しおりを挟むアパートの大家の婆さんからまた苦情の電話があった。
内容は前回と同じで、
「戌の刻までギターをかき鳴らすのは止めて欲しいと、今また訴えてこられたぞ」
というものだった。
「でもそんなに夜遅くまでは、やってないって言いましたよね。いつも20時には止めているので」
とりあえずギターを膝に置く。
老いの限界を超えているような、よぼついた婆さんに気を使って、僕はなるべく口調をやわらかくして物申した。
「なに、20時っておまえ、戌の刻の刻までやっているんじゃねえか。全く改善されなかった、って相手さんもそりゃ言ってくるわな!」
婆さんは呆れながらもどことなく嬉々としていて、隣人どうしのいさかいを楽しんでいるようにも思えた。
「戌の刻って、江戸時代のイタコみたいな言い方じゃわかんないし」
軽く舌打ちをして部屋の時計を見ると、19時を少し回った頃だった。
19時過ぎでも、もうダメなのか。
いったい戌の刻って、何時のことをいうのか聞こうとしたら、
「わしは江戸生まれでも、イタコでもないわ。無礼なこと抜かすと来月から家賃あげるぞ」
納得いかないキレ方を見せて、婆さんは電話口でうるさく怒鳴る。
家賃が安いということだけが取り柄のこのアパートで、賃上げされると困るというより腹が立つ。
むかっ腹を立てながら、すみません、もっとギターを控えます。
そう口先だけで言ってのけると、わかりゃあいい、若造。と、さほど若くもない31歳の僕に向かって、婆さんは満足そうに電話を切った。
最近引っ越してきたばかりのこのアパートは、築年数が定かでない古い二階建てだ。
二階の廊下を覆うトタン屋根は、雨漏りしてきたところだけを直してつぎはぎだらけだった。
下見に来たとき、
「玄関ドアが朽ちて色褪せていますね」
と婆さんに言ったら、越してきたときには僕の部屋のドアだけ突拍子もない黄緑色で塗装されていた。
部分部分、修繕はされているようだが、業者に頼まずにこの婆さん一人でやってのけているらしく、見栄えが恐ろしく悪い。
おんぼろだし、何号室、という概念もへったくれもないくらい壁も薄い。
アパート全体が大家族で、プライバシーなしの部屋を割り当てられているようなものだ。
だから騒音は昼夜関係なくすさまじい。
常に酔っぱらって奇声を発し続ける爺さんや、詩吟を詠んでは詰まり、詰まると一度奇声を発してから詠み直す若い男。
音痴な鼻歌に声量や気持ちを込めすぎて、もはや奇声を発しているだけの小学生男子。
とにかく奇声が多い。
それに乗じてこちらもギターで張り合っていた。
隣の202号室の女だな、とスマホを放り換げてから思った。
201号室の僕の部屋の階下は空き家だ。
下見のとき、
「端の部屋は上も下も空いているから、どちらでも好きな方を選べ」
と婆さんは言っていた。
だから苦情は隣の、年齢不詳のあの夫人だ。
秋も深まってきたというのに、見かけるたび常夏情緒あふれるムームーをひょろりとした体にまとわせていた。
常夏が旦那の好みなのか、自分の好みなのかはわからない。
縮れた髪の毛を色つきの輪ゴムでひっつめ、薄く開かれた目からは干しぶどう並みに小さい黒目がこっそりのぞいている。
もちろん化粧気もなく、これら全部の容貌を大変身・大解剖したところで、「おっ、実は綺麗だったんだあ」などという嬉しい驚きはないなと、一度目にしただけで充分に見極められた。
実は若いのかもしれないが、身なりにそれほど気を使っていないところなど、「オバさん」の雰囲気を充分に醸し出していた。
始終うつむきがちなので暗い感じがしそうだが、それでもなぜか陽の気が滲み出ているのは不思議だ。
かと言って、気軽に声を掛けたり掛けられたりするには抵抗もある。
向こうもそう思っているのか、万一出くわしたとしても、お互い挨拶すらしない。
そんな隣の女に、今日の曲練習は締めくくったぞと、ジャジャーンとひとかきむしりしてやったら、
「ととととん」
と小刻みに薄壁を小突く音が聞こえた。
202からだ。
やっぱり。
だからもう終わりにしたんだよ、とこちらも「どどどどん」と荒々しくこぶしをあてた。
バイトから帰ってくる17時からの2時間弱では、練習も曲作りだって満足にできない。
あー、前のマンションは良かったな。
狭かったけど全室防音設備が施されていたし。更新料が払えずに、このボロアパートに越してきた途端、これだ。
ため息を長々と押し出しながら立ち上がると、再び202が壁を叩いてきた。
「どんどん、どどん。どんどん、どどん」
暴れ太鼓でも打つかのような、激しく且つリズミカルな調子だ。
僕のギターに対抗でもするかのように。
というより、さっきの僕のこぶしの「どどどどん」に対しての応答か。
止める気配もない。
りっぱな騒音だ。
今度は僕が大家の婆さんに苦情を申し出てやろうと、鼻息荒くスマホを手にしたが、婆さんを介するのが面倒に思った。
直接とがめてやろう。
そうだ、この壁太鼓だけじゃなく、実際彼女ん家だって、もうそれは結構な騒音を立てているのだった。
引っ越して来てから3週間、ずいぶん我慢してきたのだ。
部屋を飛び出して、202号室のドアブザーを鳴らす。
太鼓の振動が止み、様子をうかがうように、きしむ畳の音がゆっくりと玄関に近づいてくる。
「お隣さーん」
甲高く声を掛けると、もたついた物音がしてからドアが開き、202のお隣さんが顔を出した。
今日は秋らしくムームーに薄手のカーディガンを織っている。
近くで見ると、細目や口元なんかが緩慢で、顔の特徴について挙げる言葉として適当かわからないが、「のっそり」というのが一番しっくりときた。
「あの、ギターのことなのですけど」
声を押さえてお隣さんに話しかけた。
お隣さんは僕が直に接してきたことに驚いたのか、細い目も薄い口もだんご鼻もおっ広げて、意味なく厶ームーの首元や裾を引っ張っている。
「うるさくして悪いとは思っているのですけど、19時までならオッケーなのですかね?僕もギターに人生かけちゃっているんで、なるべくコイツに触れていたいのですけどねー」
ギターに人生かけるなんて言っちゃっているわ、と友人にはあまり聞かれたくないフレーズがポンと出たことに少々赤面する。
「人生。プロの方だったのですか」
突然の隣人の訪問に驚きながらも、お隣さんは眩しそうに僕を見上げた。
「いや、プロではなくてですね」
なんとなく語尾が消え入りそうになる。
「バンド、とかですか」
「いや、バンドではなくてですね。一人でやっていて」
「あ、じゃあ演歌」「いや、演歌では…」
演歌、と口にしたお隣さんの顔が急に親近感たっぷりに近づいてきた。
気持ち悪いという思いと、親しみの感情を逆手にとって苦情を賛同に変えさせてやろうかという思いとで半々になった。
「演歌です。目新しく弾き語りの演歌でして」
なんとなく媚びる感じで言ってしまう。
「まあ、そうでしたか、そうでしたか。私も演歌が好きなので、そういうことなら、19時までと言いたいところ、まあ、19時半までなら結構ですよ」
口に手をあて、首を大げさに上下させて、お隣さんは終了時間を30分ほど延ばしてくれた。
「はあ、ありがとうございます」
ありがたいのかどうなのか、複雑な気持ちで202号室を後にする。
あれ、僕、何かもっと肝心なこと言いに行ったのじゃなかったっけ。
きつねにつままれたように部屋に戻って、横たわるギターを眺めていたら、
「こ・こ・こっ・こん・」
またも202から妙な軽快さで壁を打たれた。
ああ、壁太鼓だ。
これの苦情を言いに行ったのだった。
再び頭にカッと血がのぼったが、もうあの人とは言葉を交わしたくないので、気を取り直して冷蔵庫から発泡酒を取り出す。
こ・こ・こっ・こんっ。
話すみたいなリズムで余計腹が立った。
もう一度やってきたら足で一発ドシンと仕返してやろうとしたが、それきり叩いてこなかった。
つづく
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