【短編集】或るシングルマザーの憂鬱

ふうこジャスミン

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【完結話】或るシンガーソングライターの憂鬱

#2 日常垂れ流し(小さい伏線をはっている)

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202号室の多大な騒音の苦情を言うのを忘れてしまっていたのだ、と思い出したのは、夜1時を回った頃だった。
壁太鼓なんかより重篤とでも言える騒音。
それが始まった。

6畳一間の空間が音で揺れる。
それがひっきりなしに畳み掛けてくる。
こうなったら眠れないので、耳栓を装着する。

音の正体は、イビキだ。
あのお隣さんの旦那のイビキだ。
壁は薄いのだから、咳・くしゃみはもろに、テレビの音だって内容まではわからないにしても聞こえてくる。
いびきは「もろ」の方だ。
しかも咳やくしゃみと違って、長時間に渡って響き続ける。
それもただの男のイビキじゃない。
轟音なのだ。
もうそれはひどい。
文字で表現するならガーとかゴーとかよく耳にするイビキの音になってしまうので非常に不本意だ。
これは人が寝ているときに口から出し得る音では到底ないのだから。
なんというか地震の発生源。
いや、ロケットを三秒毎に発射する航空宇宙局を喉に併設している。

その轟音は202号室だけに収まるはずもなく、隣の僕の部屋にまで押し寄せてくる。
202号室の向こう隣や階下の102号室は、どう耐えているのか不思議になる。

自己調査によると、向こう隣は夜の仕事をしている男で、階下は耳の遠そうな酔っ払い爺さんだ。
どちらもなんとか難を逃れているのだろうか。


あ、止まった。
辺りが急に夜らしくシンとする。
今のうちに眠ってしまおう。
怒りで乱れたタオルケットをつま先で引っ張り上げる。
ほうっと息を吐き目を閉じる。

「ンガッ、ゲホゲホッ」
旦那、無呼吸でいたため激しく咳き込む。
まだ彼を見かけたことはないが、病院での診察を受けた方がいいのではないかと促したくなる。

咳き込み後しばらくは、自分の耳鳴りが微かに鳴っているだけの、本来の夜の世界へ一時的に戻る。
次の騒音がやってくるまでに、なんとか眠りにつかなければ。

そして明日、婆さんにこの苦情を言ってやろう。
もしかしたら四方八方から同じ苦情がきているかもしれない。
最後に僕の一押しで、何らかの対処がされるだろう。

202号室完全防音、もしくは退去。
そうなったら、僕もギターも万々歳だ。

それにしてもあのお隣さん、僕の数時間のギター練習には辛抱できないのに、朝まで続く旦那の異常なイビキに耐えられるのはどうしてなのか、これまた不思議だ。



鳥の鳴き声と大家の婆さんの声で、朝7時45分に目が覚める。
ボイス目覚まし時計のアラーム音だ。

録音音声のセキレイの「チチチ」の鳴き声から始まって、婆さんの怒鳴り声「畑をあっ」で終わる音声が繰り返される。

「畑をあっ」を朝聞くたび、もう一度録音しなおそうと誓うのだが、あれきりセキレイを見かけない。

この「畑をあっ」録音音声について、詳しく話そう。

越してきたあくる日、アパート右隣の畑に、尾っぽを上下に振っているセキレイの姿を見つけたのだ。
自然好きの僕は録音マイク付きの時計を持って畑に入っていった。

僕の足音に気づいてセキレイはすぐに飛んでいってしまったが、録音は大成功だった。
セキレイは飛び立つときに「チチチ」と鳴くからだ。

しめしめとほくそ笑んでいたら、105号室に住んでいる大家の婆さんが畑の外に立っていた。


「畑を荒らすなっ。愚か者め」


と、僕に怒鳴りながら指を差してきた。
驚いて僕はすぐさま畑から出たが、婆さんは「畑に謝れぃ」としつこく言いながら、僕の腰を杖で小突いてくる。

荒らしてなどいなかったが、鳥の鳴き声をとっていました、と野鳥の会の人みたいに清々しく言い切ることもできずに、やむなく畑に頭を下げた。

録音は成功したのだし、まあいいやと、部屋に戻って再生してみると、


「チチチ、チチン、チ畑をあっ」


と可愛らしい鳴き声のあとに、余計なだみ声が入ってしまっていた。
うな垂れる。
どうでもよくなって、結局そのままにしておいたのだ。


身の回りを簡単にすませて8時前に部屋を出る。
朝から元気が良すぎる小学生の集団や、自転車で駅に向かう会社員、指定の場所までゴミ袋をヨタヨタ運ぶ主婦らに混じって、表通りの小さなコンビ二に向かう。
ぼろアパートから徒歩3分の、僕の職場だ。



つづく
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