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第1楽章
カンタービレの夜
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モスクワの夜は冷たい。
だが街灯の下でギターケースを背負うブロンドの女性には、そんな寒さなど関係ないというふうに、背筋に一本芯が通っていた。
目的地は小さなレストラン。
常連客の多いこの店で、今夜はギターとヴァイオリンのデュオ演奏が予定されていた。
──はずだった。
「……また来ないの? あのヴァイオリンのやつ」
受付にいたスタッフが、申し訳なさそうに肩をすくめる。
「さっき連絡があってね。風邪だってさ」
「そう。じゃあ、ギターソロで押し通すしかないわけね」
アーシャはギターケースを下ろしながら、深いため息をついた。
こういうことは初めてじゃない。
むしろ慣れている。
けれど──
ふいにドアが開き、冷たい空気と一緒に少年が現れた。
「……あの、こんばんは。おじゃましてすみません」
アーシャが顔を上げると、そこにはあの少年が立っていた。
黒髪に、青い瞳。
少し大きめのコートに、ヴァイオリンケースを抱えている。
公園で出会った、ハンガリーの少年──レメーニだ。
「……なんで、あんたがここに?」
「金曜の夜なら、ここにいるって……言ってたから。聴けるかもしれないと思って」
言葉の端々に緊張が滲んでいる。
だが目だけは、まっすぐだった。
アーシャは少しだけ眉をひそめた。
突然現れて、躊躇なく中へ入ってくるなんて──正直というか、臆さないというか。
そのとき、近くにいたスタッフが口を挟んだ。
「ねえ君、ヴァイオリン持ってるよね? ちょうど今夜の子が来られなくなってね。よかったら、代わりに弾いてみない?」
レメーニは驚いたように目を見開いた。
「え……僕で、いいんですか?」
スタッフはアーシャの方をちらりと見る。
アーシャはギターケースに手をかけたまま、しばらく黙っていたが、やがて低く口を開いた。
「……曲は?」
レメーニが一瞬戸惑いながら聞き返す。
「えっと……何を演奏する予定だったんですか?」
「カンタービレ。パガニーニの」
「……覚えてます。合わせてみて、もし無理そうなら……やめます」
しばしの沈黙。
アーシャはそっぽを向いたまま、ギターケースのロックを外す。
「……一回だけ。外したら、それで終わり」
レメーニは静かに、深くうなずいた。
⸻
店内には柔らかな照明と、グラスを交わす音。
その空間に、ギターとヴァイオリンが同時にふっと沈むように響いた。
パガニーニ《ヴァイオリンとギターのためのカンタービレ》。
技巧を誇る曲ではない。
この曲で試されるのは、旋律の“呼吸”をどれだけ分かち合えるか──ただそれだけだ。
ギターの低く温かな響きと、ヴァイオリンの細く澄んだ音色が、ためらいなく重なり合う。
まるで初めから、二人で演奏する運命だったかのように。
響き合う、というよりも、音が“そっと隣に立った”ような感覚。
──大丈夫。ちゃんと聴いてる。
言葉にならない想いを、音で届けるように。
旋律が進む。
二人の間に交わされるのは、視線ではなく、間合いと音色の応酬。
アーシャは少しだけ目を伏せ、ギターに指を走らせながらレメーニの音に耳を澄ませる。
──この子、本当に合わせてくる。呼吸まで聴いてる。
想定よりも早く、心が揺れた。
だからこそ、リードする手元に迷いが生まれないよう、自分を保った。
レメーニは、ギターの息づかいに合わせて、ほんのわずかにテンポを緩める。
一緒に音を奏でている、という感覚に心が震えていた。
──今だけは、同じ場所にいる。
中間部の旋律は、やや表情を増しながら高まり、そしてまた静けさへと戻っていく。
まるで感情の波が寄せては返すように。
観客は気づかぬうちにグラスを持つ手を止め、音に聴き入っていた。
少年のヴァイオリンと、少女のギター。
それぞれが違う国からやってきて、今、この場所で交差している。
どちらかが前に出すぎることも、主張しすぎることもない。
ただ、静かに寄り添い、互いの存在を確認するような音楽。
──きっと、今なら届いている。
レメーニはそう信じていた。
そしてアーシャもまた、いつの間にか彼の音に“答えていた”。
やがて、最後の一音がそっと天井に溶けるように消えた。
店内に、深い沈黙が訪れる。
でもそれは、戸惑いでも気まずさでもなかった。
音の余韻を、ただ静かに味わいたいという、満たされた沈黙だった。
⸻
アーシャは何も言わずに立ち上がり、レメーニの方をちらりと見た。
「……やるじゃない」
それだけ言って、彼女はギターケースを肩に担いだ。
レメーニは戸惑いながらも、笑った。
少しだけ近づけた。そんな気がした。
演奏が終わったあとも、拍手はしばらく止まらなかった。
店内の客たちは、名も知らぬ二人の奏者に驚きと敬意のまなざしを向けていた。
中には立ち上がって声をかけようとする者さえいたが、アーシャはそれを目で制した。
レメーニにも、一礼以外の言葉はなかった。
終演後の挨拶もなく、彼女は静かにギターをしまい、スタッフに報酬を受け取って、いつも通りに動いた。
レメーニは演奏者控室のような場所で黙って自分のヴァイオリンをケースに戻していた。
拍手を浴びたのに、何か取り残されたような気持ちがあった。
──やっぱり、独りよがりだったんだろうか。
そんな思いがよぎったとき、控室のドアがふっと開いた。
「……ちゃんと弾けるじゃない」
ギターケースを肩にかけたアーシャが、壁にもたれかかるように立っていた。
レメーニはきょとんと目を見開いた。
「え……」
「音の呼吸、ちゃんと聴いてた。合わせる気もあった」
そう言ってから、アーシャは一度だけ目を細めて笑った。
皮肉ではなく、ほんの少し──柔らかい光のような笑み。
「……ありがと」
それは素直とは言えないけれど、確かに“感謝”だった。
レメーニは息を詰めたまま、こくんと頷いた。
「また来るつもり?」
アーシャの問いは、ぶっきらぼうだったが、拒絶の響きはなかった。
「……いいですか?」
「知らない。私の演奏の邪魔にならないなら」
それきり彼女は背を向け、控室のドアを閉めようとする。
だがその手を止めて、ふいに振り返った。
「……ハンガリーって、寒い?」
「モスクワよりは、ちょっとだけマシです」
その返事に、アーシャはくすっと笑った。
「なら、今のうちに慣れときなさい。モスクワの冬は、厄介よ」
そして、ドアが静かに閉まった。
残されたレメーニは、胸の奥がじんわりと熱を持つのを感じていた。
演奏が、音楽が、誰かとのつながりになることを──初めて知った夜だった。
だが街灯の下でギターケースを背負うブロンドの女性には、そんな寒さなど関係ないというふうに、背筋に一本芯が通っていた。
目的地は小さなレストラン。
常連客の多いこの店で、今夜はギターとヴァイオリンのデュオ演奏が予定されていた。
──はずだった。
「……また来ないの? あのヴァイオリンのやつ」
受付にいたスタッフが、申し訳なさそうに肩をすくめる。
「さっき連絡があってね。風邪だってさ」
「そう。じゃあ、ギターソロで押し通すしかないわけね」
アーシャはギターケースを下ろしながら、深いため息をついた。
こういうことは初めてじゃない。
むしろ慣れている。
けれど──
ふいにドアが開き、冷たい空気と一緒に少年が現れた。
「……あの、こんばんは。おじゃましてすみません」
アーシャが顔を上げると、そこにはあの少年が立っていた。
黒髪に、青い瞳。
少し大きめのコートに、ヴァイオリンケースを抱えている。
公園で出会った、ハンガリーの少年──レメーニだ。
「……なんで、あんたがここに?」
「金曜の夜なら、ここにいるって……言ってたから。聴けるかもしれないと思って」
言葉の端々に緊張が滲んでいる。
だが目だけは、まっすぐだった。
アーシャは少しだけ眉をひそめた。
突然現れて、躊躇なく中へ入ってくるなんて──正直というか、臆さないというか。
そのとき、近くにいたスタッフが口を挟んだ。
「ねえ君、ヴァイオリン持ってるよね? ちょうど今夜の子が来られなくなってね。よかったら、代わりに弾いてみない?」
レメーニは驚いたように目を見開いた。
「え……僕で、いいんですか?」
スタッフはアーシャの方をちらりと見る。
アーシャはギターケースに手をかけたまま、しばらく黙っていたが、やがて低く口を開いた。
「……曲は?」
レメーニが一瞬戸惑いながら聞き返す。
「えっと……何を演奏する予定だったんですか?」
「カンタービレ。パガニーニの」
「……覚えてます。合わせてみて、もし無理そうなら……やめます」
しばしの沈黙。
アーシャはそっぽを向いたまま、ギターケースのロックを外す。
「……一回だけ。外したら、それで終わり」
レメーニは静かに、深くうなずいた。
⸻
店内には柔らかな照明と、グラスを交わす音。
その空間に、ギターとヴァイオリンが同時にふっと沈むように響いた。
パガニーニ《ヴァイオリンとギターのためのカンタービレ》。
技巧を誇る曲ではない。
この曲で試されるのは、旋律の“呼吸”をどれだけ分かち合えるか──ただそれだけだ。
ギターの低く温かな響きと、ヴァイオリンの細く澄んだ音色が、ためらいなく重なり合う。
まるで初めから、二人で演奏する運命だったかのように。
響き合う、というよりも、音が“そっと隣に立った”ような感覚。
──大丈夫。ちゃんと聴いてる。
言葉にならない想いを、音で届けるように。
旋律が進む。
二人の間に交わされるのは、視線ではなく、間合いと音色の応酬。
アーシャは少しだけ目を伏せ、ギターに指を走らせながらレメーニの音に耳を澄ませる。
──この子、本当に合わせてくる。呼吸まで聴いてる。
想定よりも早く、心が揺れた。
だからこそ、リードする手元に迷いが生まれないよう、自分を保った。
レメーニは、ギターの息づかいに合わせて、ほんのわずかにテンポを緩める。
一緒に音を奏でている、という感覚に心が震えていた。
──今だけは、同じ場所にいる。
中間部の旋律は、やや表情を増しながら高まり、そしてまた静けさへと戻っていく。
まるで感情の波が寄せては返すように。
観客は気づかぬうちにグラスを持つ手を止め、音に聴き入っていた。
少年のヴァイオリンと、少女のギター。
それぞれが違う国からやってきて、今、この場所で交差している。
どちらかが前に出すぎることも、主張しすぎることもない。
ただ、静かに寄り添い、互いの存在を確認するような音楽。
──きっと、今なら届いている。
レメーニはそう信じていた。
そしてアーシャもまた、いつの間にか彼の音に“答えていた”。
やがて、最後の一音がそっと天井に溶けるように消えた。
店内に、深い沈黙が訪れる。
でもそれは、戸惑いでも気まずさでもなかった。
音の余韻を、ただ静かに味わいたいという、満たされた沈黙だった。
⸻
アーシャは何も言わずに立ち上がり、レメーニの方をちらりと見た。
「……やるじゃない」
それだけ言って、彼女はギターケースを肩に担いだ。
レメーニは戸惑いながらも、笑った。
少しだけ近づけた。そんな気がした。
演奏が終わったあとも、拍手はしばらく止まらなかった。
店内の客たちは、名も知らぬ二人の奏者に驚きと敬意のまなざしを向けていた。
中には立ち上がって声をかけようとする者さえいたが、アーシャはそれを目で制した。
レメーニにも、一礼以外の言葉はなかった。
終演後の挨拶もなく、彼女は静かにギターをしまい、スタッフに報酬を受け取って、いつも通りに動いた。
レメーニは演奏者控室のような場所で黙って自分のヴァイオリンをケースに戻していた。
拍手を浴びたのに、何か取り残されたような気持ちがあった。
──やっぱり、独りよがりだったんだろうか。
そんな思いがよぎったとき、控室のドアがふっと開いた。
「……ちゃんと弾けるじゃない」
ギターケースを肩にかけたアーシャが、壁にもたれかかるように立っていた。
レメーニはきょとんと目を見開いた。
「え……」
「音の呼吸、ちゃんと聴いてた。合わせる気もあった」
そう言ってから、アーシャは一度だけ目を細めて笑った。
皮肉ではなく、ほんの少し──柔らかい光のような笑み。
「……ありがと」
それは素直とは言えないけれど、確かに“感謝”だった。
レメーニは息を詰めたまま、こくんと頷いた。
「また来るつもり?」
アーシャの問いは、ぶっきらぼうだったが、拒絶の響きはなかった。
「……いいですか?」
「知らない。私の演奏の邪魔にならないなら」
それきり彼女は背を向け、控室のドアを閉めようとする。
だがその手を止めて、ふいに振り返った。
「……ハンガリーって、寒い?」
「モスクワよりは、ちょっとだけマシです」
その返事に、アーシャはくすっと笑った。
「なら、今のうちに慣れときなさい。モスクワの冬は、厄介よ」
そして、ドアが静かに閉まった。
残されたレメーニは、胸の奥がじんわりと熱を持つのを感じていた。
演奏が、音楽が、誰かとのつながりになることを──初めて知った夜だった。
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