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第三章『焔魔仙教編』
第百八十五話 夢か現か【中】
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「欲張りはいけません」
近づく唇を、指先で制す。
「あれもこれもとはしたない。ひとつを欲するならば、ひとつを諦めてくださいませ」
「諦める、とは?」
「からだか、くちびるか」
「諦めるものなどない。そなたのすべてが私は欲しい」
「──笑止」
おしゃべりに付き合ってやったが、それもここまで。
「おいそれと明けわたすほど、私は気安くはないぞ」
いまこそ、毅然として対峙するとき。
「いま一度問う。あなたが欲するのは、私の肉体か、心か」
──沈黙。
動くものはなく、風も吹かない。
針の落ちる音すらわかるだろう静寂に、やがて衣ずれがひびき、止まっていた時を揺り動かした。
「そなたは、悪い女だな」
ゆっくりと上体を起こした飛龍と相対する。
いまや笑みは剥がれ落ち、人形のごとくととのった顔貌からは、感情を把握しづらい。
衣ずれが、またひとつ。ぐ、とのぞき込む緋眼が『なにを』見ているのか、瑠璃の瞳で見据える。
「……意地悪だ」
吐息のようなつぶやき。
飛龍が薄く笑んだそのとき、風が吹き抜け、視界の端で梅の枝がそよぐ。
丸みをおびた瑠璃の瞳でまばたきをひとつするあいだに、男の体重がなだれ込んだ。
とさり、とからだが沈み込む。
気づけば長椅子に押し倒され、唇と唇をかさねられていた。まさに一瞬の出来事。
「『それ』が、あなたの答えか」
早梅の問いに、わずかばかり顔をはなした飛龍がほほ笑む。明確な言葉はなく、ふたたび熱がふれあった。
「……梅雪……」
「ふぅ……」
「梅雪……梅雪っ」
「んんっ……」
押し入った熱い舌に、より深く、呼吸を奪われる。
粘膜をこする音、唾液をかき混ぜる音が脳に直接ひびくようだ。
貪るとはこのことか。一心不乱に舌を絡め、冷えきった体温を熱で燃え上がらせながらも、早梅を抱き込んだ飛龍の腕がほどかれることはない。
かつて早梅を絶望へ突き落とした指先が、衣のすきまから侵入することもない。
「まだ、辛抱をさせるか……それほどまでに甘い香りをはなっておきながら、私をさいなむのか……ほんとうに、悪い女だ」
密着した飛龍のからだが、熱い。燃えるようだなんて生半可な言葉では表現できない。
ともすれば死人のようでもあった青白い顔が、早梅にふれ、たちまちに紅潮したのだ。
ひたい、まぶた、唇の端、ほほと絶えず早梅へかすめるだけの口づけを落とすうちに、飛龍の呼吸は浅く、速くなってゆく。
「梅雪……はぁっ」
熱い吐息が鼓膜へふれ、悩ましく眉をひそめた飛龍に、ひとたび耳朶を食まれる。
「私がなによりも欲しいのは、そなたの愛だ……私を愛しておくれ。未来永劫、骨の髄まで愛すことを、私も誓おう……」
どろりと濃密な熱をおびた睦言をささやいた飛龍が、薄笑う。
そのとき、はじめて気づいた。近づく口唇のすきまから、牙のごとく鋭利な犬歯がのぞいていることに。
「愛している……梅雪」
とっさに飛龍の胸を押し返そうとしたが、間に合わなかった。
──ずぶり。
「ッ! あぁああッ!」
早梅の左の首すじに顔をうずめた飛龍の、鋭い鋭い『牙』が、肌をつらぬく。杭を打ち込むかのごとく埋め込まれたそれが、早梅を決して逃がしはしない。
「はっ……んっ」
全身をかけ巡り、一点へ殺到する熱。
傷に口づけた飛龍が、あふれる血液を啜っている。一滴もこぼすまいと、舌を這わせ、血を舐め取っている。
「っは……あまい、甘いな……どんな果実よりも瑞々しく、美味だ……力がわき上がるようだ……ふ、ははははっ!」
高らかなわらい声がひびきわたった。
とたん、空虚な世界が鮮烈に色づく。
池の氷がとけ、浮かんだ蓮葉のあいだを紅色の鯉が泳ぐ。
水辺にはおびただしい彼岸花が咲きほこり、漆黒の蝶が舞う。
血のように赤い太陽に照らされた極彩色の世界は、現実味がない一方で、圧倒的な存在感を脳裏へ焼きつける。
これは夢か、現か。
近づく唇を、指先で制す。
「あれもこれもとはしたない。ひとつを欲するならば、ひとつを諦めてくださいませ」
「諦める、とは?」
「からだか、くちびるか」
「諦めるものなどない。そなたのすべてが私は欲しい」
「──笑止」
おしゃべりに付き合ってやったが、それもここまで。
「おいそれと明けわたすほど、私は気安くはないぞ」
いまこそ、毅然として対峙するとき。
「いま一度問う。あなたが欲するのは、私の肉体か、心か」
──沈黙。
動くものはなく、風も吹かない。
針の落ちる音すらわかるだろう静寂に、やがて衣ずれがひびき、止まっていた時を揺り動かした。
「そなたは、悪い女だな」
ゆっくりと上体を起こした飛龍と相対する。
いまや笑みは剥がれ落ち、人形のごとくととのった顔貌からは、感情を把握しづらい。
衣ずれが、またひとつ。ぐ、とのぞき込む緋眼が『なにを』見ているのか、瑠璃の瞳で見据える。
「……意地悪だ」
吐息のようなつぶやき。
飛龍が薄く笑んだそのとき、風が吹き抜け、視界の端で梅の枝がそよぐ。
丸みをおびた瑠璃の瞳でまばたきをひとつするあいだに、男の体重がなだれ込んだ。
とさり、とからだが沈み込む。
気づけば長椅子に押し倒され、唇と唇をかさねられていた。まさに一瞬の出来事。
「『それ』が、あなたの答えか」
早梅の問いに、わずかばかり顔をはなした飛龍がほほ笑む。明確な言葉はなく、ふたたび熱がふれあった。
「……梅雪……」
「ふぅ……」
「梅雪……梅雪っ」
「んんっ……」
押し入った熱い舌に、より深く、呼吸を奪われる。
粘膜をこする音、唾液をかき混ぜる音が脳に直接ひびくようだ。
貪るとはこのことか。一心不乱に舌を絡め、冷えきった体温を熱で燃え上がらせながらも、早梅を抱き込んだ飛龍の腕がほどかれることはない。
かつて早梅を絶望へ突き落とした指先が、衣のすきまから侵入することもない。
「まだ、辛抱をさせるか……それほどまでに甘い香りをはなっておきながら、私をさいなむのか……ほんとうに、悪い女だ」
密着した飛龍のからだが、熱い。燃えるようだなんて生半可な言葉では表現できない。
ともすれば死人のようでもあった青白い顔が、早梅にふれ、たちまちに紅潮したのだ。
ひたい、まぶた、唇の端、ほほと絶えず早梅へかすめるだけの口づけを落とすうちに、飛龍の呼吸は浅く、速くなってゆく。
「梅雪……はぁっ」
熱い吐息が鼓膜へふれ、悩ましく眉をひそめた飛龍に、ひとたび耳朶を食まれる。
「私がなによりも欲しいのは、そなたの愛だ……私を愛しておくれ。未来永劫、骨の髄まで愛すことを、私も誓おう……」
どろりと濃密な熱をおびた睦言をささやいた飛龍が、薄笑う。
そのとき、はじめて気づいた。近づく口唇のすきまから、牙のごとく鋭利な犬歯がのぞいていることに。
「愛している……梅雪」
とっさに飛龍の胸を押し返そうとしたが、間に合わなかった。
──ずぶり。
「ッ! あぁああッ!」
早梅の左の首すじに顔をうずめた飛龍の、鋭い鋭い『牙』が、肌をつらぬく。杭を打ち込むかのごとく埋め込まれたそれが、早梅を決して逃がしはしない。
「はっ……んっ」
全身をかけ巡り、一点へ殺到する熱。
傷に口づけた飛龍が、あふれる血液を啜っている。一滴もこぼすまいと、舌を這わせ、血を舐め取っている。
「っは……あまい、甘いな……どんな果実よりも瑞々しく、美味だ……力がわき上がるようだ……ふ、ははははっ!」
高らかなわらい声がひびきわたった。
とたん、空虚な世界が鮮烈に色づく。
池の氷がとけ、浮かんだ蓮葉のあいだを紅色の鯉が泳ぐ。
水辺にはおびただしい彼岸花が咲きほこり、漆黒の蝶が舞う。
血のように赤い太陽に照らされた極彩色の世界は、現実味がない一方で、圧倒的な存在感を脳裏へ焼きつける。
これは夢か、現か。
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