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第三章『焔魔仙教編』
第二百二話 胡蝶之夢【前】
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──ブォオオオ!
突如として響きわたった角笛が、闇夜の静けさをゆるがす。
「侵入者だと? 門番はなにをしていたんだ!?」
異変を察知した警備兵たちが、すぐさま内門の方角、離宮の西側へと急ぐ。
が、内門へたどり着くより早く、にわかには信じがたい光景を目の当たりにした。
「なっ……!」
無造作に投げ出された橙灯篭。
大広場のあちこちに、警備兵が倒れ込んでいる。その数は十五名。
みな一様に意識がなく、ぴくりとも身じろがない。
「なんだ、これは……」
「おい、どうした! なんのさわぎだ!?」
「はっ……?」
呆然と立ち尽くす警備兵のもとへ、応援が駆けつける。その顔ぶれを目にし、警備兵はさらに混乱をきわめた。
「内門の門番じゃないか! おまえたち、一体なにをしていたんだ!? 侵入者をゆるすなんて!」
「なに、侵入者だと? 怪しい者は見受けられなかったぞ」
「ならば、ここに倒れている者たちのことはどう説明する!? おまえたちの検問が甘かったから、このような事態になっているのではないのか!」
「濡れ衣だ! 名簿に記載された『来客』以外は、何人たりとも通していない!」
激しい追及に、門番の男は大声をあげて反論する。
その横でこわごわと右手を挙げたのは、おなじく内門の警備についていた門番だ。
「なぁ……名簿に記載のない『来客』が……夕刻ごろに、殿下が女を連れて帰らなかったか? どこぞのご令嬢だとかいう……」
「馬鹿を言え! あんな細くてか弱そうな乙女子に、なにもできるはずなどなかろう! お付きの者も入念に調べたが、武器なぞ所持してはいなかった! そもそも、素性が知れぬとはいえ、殿下がお連れになった客人を疑うとは、不敬罪にあたるぞ!」
正論だった。内門警備の責任者である男が主張するように、外部からの入出管理に穴があったとはとうてい考えにくい。
だが、ここはちょうど敷地の中心部。長い長い三千階段をのぼった高地にあり、四方に堅固な石の壁がそびえ立っている。
内門を通らずに侵入するなど、不可能だ。
「何故……これではまるで、侵入者が降ってわいたようではないか……」
「──ご明察です」
ふいに拍手が聞こえ、警備兵たちは弾かれたようにふり返った。
「……何者だ」
いつからだ。一体いつから、背後を取られていた?
警備兵は早る気持ちをおさえ、ひとの気配のする暗闇へ灯篭をかかげた。
そこにいたのは、黒のまじった茶髪の、若い男だった。どちらかといえば華奢な部類だが、上背がある。
男はにこりと笑みを浮かべているだけで、これといった武器は手にしていない。
「妙な真似をすれば、斬る」
腰の剣を抜きはらった警備兵たちが、じりじりと男を取り囲む。
「ふむ……多勢に無勢とは言いますが、寄ってたかって脅すとは、なんとも風流でない」
だが取り囲まれてもなお、男は取り乱さない。悠長に独り言をこぼすだけだ。
「私が何者か。それをお答えしたところで、意味をなさないでしょう。何故なら、今宵ここで起きた出来事を、あなた方は忘れてしまうからです」
「なんだと……!」
もったいぶる男の言動に痺れを切らした警備兵のひとりが、一歩踏み込む。
そのとき、警備兵の目前を、ひらり、ひらりと、蝶が横切った。
淡く発光する鱗粉を闇の中で散らす、紫の蝶だ。
「其れは刹那の永遠。玉響の長夜」
詠うような声音が響かせ、男がおもむろに右手を伸ばす。しなやかな指先に、ひらりと、紫の蝶がじゃれついた。
警備兵の動きが、ぴたりと止まる。
男の行動を注視していただれもが、ひとり、またひとりと、動作を停止した。
「──『胡蝶之夢』」
警備兵たちのことごとくが、男に釘付けになっていた。
人の良い笑みを浮かべた男が、かっと糸目を見ひらいたとき──闇夜に輝くその紫水晶のような切れ長の瞳を目にした瞬間、呼吸も、思考も、なにもかもを奪われてしまったのだ。
「夢のような現の中で、お眠りなさい」
最後に、警備兵たちが目にしたものは。
またたく間に増殖したおびただしい紫の蝶の群れによって、視界を埋め尽くされる光景だった。
警備兵たちの手から、剣がすべり落ちる。
そして間もなく、意識を失った警備兵たちが、相次いで地面へ倒れ込んだ。
あとに残されたのは、指先でひらひらと舞う紫の蝶とたわむれている、男のみである。
「おーおー、やりやがったな。目を見たやつを気絶させる能力なんざ、いつ見ても陰湿だなぁ、五音」
どこからともなく聞こえた声に、男──五音は、切れ長の瞳を険しく細め、脇を見やった。
柱の影から、身の丈よりも長い棍を肩にかついだ黒髪の男があらわれる。
「君も寝かせてあげようか、六夜」
「おいこっち見んなって! 冗談の通じねぇやつだなぁ!」
視線が合ったとしても、五音が能力を発動させなければ気絶することはない。
にも関わらず条件反射で視線をさえぎったのは、五音を怒らせてえらい目に遭ったことが一度や二度ではない六夜だからこそである。
「いやぁ、父さんじゃないけど、いつ見てもえげつな……すごいよね。五音義父さんの催眠術って」
「八藍、言い直してもちゃんと聞こえてるからね」
「ごめんなさーい」
父の後に続いて姿をあらわした八藍が、おどけて謝る。
とはいえ、五音が得意とする『胡蝶之夢』は、相手の脳機能を急低下させ、興奮を抑制することで意識を奪う、強力な催眠術だ。
すとんと意識を落とさせるため、倒れ込んだ際にたいていの者が顔面や後頭部を強打するという、二次被害つき。
ちなみに、五音の怒りを買った者ほど、何故か打ちどころが悪い傾向にある。六夜や八藍が『えげつない』と称するゆえんである。
「手始めに十五人、いまので二十人……これで三十五人か。んー、全体の三割くらいだね。もうちょっと相手の戦力削いでおいたほうがよくない?」
「だな。五音はお上品にまとまりやがって、集客力がイマイチなんだよ、集客力が」
「そうかい。なら好きに大暴れするといいさ。私以上の成果を出して、梅雪さまのお褒めにあずかれるようにね」
「おう、言ったな?」
肩をすくめる五音に対し、六夜がニヤリと挑戦的な笑みを浮かべる。
「そんじゃま、俺も本気出すとすっか、なッ!」
瞬時に腰を落とす六夜。前かがみの姿勢でぐっと踏み込んだ右足に重心を乗せ、はずみをつけて身をよじる。
ヴンッ!
いまのいままで六夜がかついでいた棍、鋼鉄の棒が空を薙ぐさなかに、キンッとなにかをはじいた。
「矢か。んな飛び道具で俺をどうこうできるかっての」
六夜は青玉のような瞳を細め、余裕綽々でせせら笑う。
「怯むな! 侵入者は生きて帰すなとのお達しだ、確実に射殺せ!」
ぞろぞろとあわただしい足音を受け、八藍はさっと周囲の状況を捕捉した。
「弓兵が十人。人数は少なめだけど、上等な装備だね」
「あー、なんか怪しそうなのは、北東の離れだったか? それなら南西だ。行くぞおまえらァ!」
「あっもう、父さんってば!」
棍を片手に、六夜が喜々として南西の方角へ駆け出す。
「追え、逃がすな!」
射程距離を外れれば、弓は意味をなさない。それを六夜はよく心得ていた。軽功を駆使し、まさに風のような速さで夜を疾駆した。
弓兵のうち五名が、六夜を追って駆け出す。
「血の気が多すぎていけないな、やれやれ……」
「ねぇ俺たちどうしよっか? 五音義父さん」
「六夜が派手に暴れて敵を呼び寄せるから、私が眠らせる。八藍はこれまで通り、九詩たちにこちらの状況を逐一つたえてくれ」
「了解」
そうこう言葉を交わしているあいだにも、五音と八藍を残る五名の弓兵が取り囲む。
「まぁでも、たまには俺だって暴れてもいいよね?」
五音の指示に理解を示しつつも、八藍はそういって構えを取る。
薄緑の瞳を悪戯っぽく細めた笑みが六夜と瓜ふたつだと、五音はなかばため息をつきつつ──
「やんちゃも程々に。人間は、儚いからね」
きゅっと鋭く瞳孔を引き絞った紫水晶の瞳を、闇夜に煌めかせた。
突如として響きわたった角笛が、闇夜の静けさをゆるがす。
「侵入者だと? 門番はなにをしていたんだ!?」
異変を察知した警備兵たちが、すぐさま内門の方角、離宮の西側へと急ぐ。
が、内門へたどり着くより早く、にわかには信じがたい光景を目の当たりにした。
「なっ……!」
無造作に投げ出された橙灯篭。
大広場のあちこちに、警備兵が倒れ込んでいる。その数は十五名。
みな一様に意識がなく、ぴくりとも身じろがない。
「なんだ、これは……」
「おい、どうした! なんのさわぎだ!?」
「はっ……?」
呆然と立ち尽くす警備兵のもとへ、応援が駆けつける。その顔ぶれを目にし、警備兵はさらに混乱をきわめた。
「内門の門番じゃないか! おまえたち、一体なにをしていたんだ!? 侵入者をゆるすなんて!」
「なに、侵入者だと? 怪しい者は見受けられなかったぞ」
「ならば、ここに倒れている者たちのことはどう説明する!? おまえたちの検問が甘かったから、このような事態になっているのではないのか!」
「濡れ衣だ! 名簿に記載された『来客』以外は、何人たりとも通していない!」
激しい追及に、門番の男は大声をあげて反論する。
その横でこわごわと右手を挙げたのは、おなじく内門の警備についていた門番だ。
「なぁ……名簿に記載のない『来客』が……夕刻ごろに、殿下が女を連れて帰らなかったか? どこぞのご令嬢だとかいう……」
「馬鹿を言え! あんな細くてか弱そうな乙女子に、なにもできるはずなどなかろう! お付きの者も入念に調べたが、武器なぞ所持してはいなかった! そもそも、素性が知れぬとはいえ、殿下がお連れになった客人を疑うとは、不敬罪にあたるぞ!」
正論だった。内門警備の責任者である男が主張するように、外部からの入出管理に穴があったとはとうてい考えにくい。
だが、ここはちょうど敷地の中心部。長い長い三千階段をのぼった高地にあり、四方に堅固な石の壁がそびえ立っている。
内門を通らずに侵入するなど、不可能だ。
「何故……これではまるで、侵入者が降ってわいたようではないか……」
「──ご明察です」
ふいに拍手が聞こえ、警備兵たちは弾かれたようにふり返った。
「……何者だ」
いつからだ。一体いつから、背後を取られていた?
警備兵は早る気持ちをおさえ、ひとの気配のする暗闇へ灯篭をかかげた。
そこにいたのは、黒のまじった茶髪の、若い男だった。どちらかといえば華奢な部類だが、上背がある。
男はにこりと笑みを浮かべているだけで、これといった武器は手にしていない。
「妙な真似をすれば、斬る」
腰の剣を抜きはらった警備兵たちが、じりじりと男を取り囲む。
「ふむ……多勢に無勢とは言いますが、寄ってたかって脅すとは、なんとも風流でない」
だが取り囲まれてもなお、男は取り乱さない。悠長に独り言をこぼすだけだ。
「私が何者か。それをお答えしたところで、意味をなさないでしょう。何故なら、今宵ここで起きた出来事を、あなた方は忘れてしまうからです」
「なんだと……!」
もったいぶる男の言動に痺れを切らした警備兵のひとりが、一歩踏み込む。
そのとき、警備兵の目前を、ひらり、ひらりと、蝶が横切った。
淡く発光する鱗粉を闇の中で散らす、紫の蝶だ。
「其れは刹那の永遠。玉響の長夜」
詠うような声音が響かせ、男がおもむろに右手を伸ばす。しなやかな指先に、ひらりと、紫の蝶がじゃれついた。
警備兵の動きが、ぴたりと止まる。
男の行動を注視していただれもが、ひとり、またひとりと、動作を停止した。
「──『胡蝶之夢』」
警備兵たちのことごとくが、男に釘付けになっていた。
人の良い笑みを浮かべた男が、かっと糸目を見ひらいたとき──闇夜に輝くその紫水晶のような切れ長の瞳を目にした瞬間、呼吸も、思考も、なにもかもを奪われてしまったのだ。
「夢のような現の中で、お眠りなさい」
最後に、警備兵たちが目にしたものは。
またたく間に増殖したおびただしい紫の蝶の群れによって、視界を埋め尽くされる光景だった。
警備兵たちの手から、剣がすべり落ちる。
そして間もなく、意識を失った警備兵たちが、相次いで地面へ倒れ込んだ。
あとに残されたのは、指先でひらひらと舞う紫の蝶とたわむれている、男のみである。
「おーおー、やりやがったな。目を見たやつを気絶させる能力なんざ、いつ見ても陰湿だなぁ、五音」
どこからともなく聞こえた声に、男──五音は、切れ長の瞳を険しく細め、脇を見やった。
柱の影から、身の丈よりも長い棍を肩にかついだ黒髪の男があらわれる。
「君も寝かせてあげようか、六夜」
「おいこっち見んなって! 冗談の通じねぇやつだなぁ!」
視線が合ったとしても、五音が能力を発動させなければ気絶することはない。
にも関わらず条件反射で視線をさえぎったのは、五音を怒らせてえらい目に遭ったことが一度や二度ではない六夜だからこそである。
「いやぁ、父さんじゃないけど、いつ見てもえげつな……すごいよね。五音義父さんの催眠術って」
「八藍、言い直してもちゃんと聞こえてるからね」
「ごめんなさーい」
父の後に続いて姿をあらわした八藍が、おどけて謝る。
とはいえ、五音が得意とする『胡蝶之夢』は、相手の脳機能を急低下させ、興奮を抑制することで意識を奪う、強力な催眠術だ。
すとんと意識を落とさせるため、倒れ込んだ際にたいていの者が顔面や後頭部を強打するという、二次被害つき。
ちなみに、五音の怒りを買った者ほど、何故か打ちどころが悪い傾向にある。六夜や八藍が『えげつない』と称するゆえんである。
「手始めに十五人、いまので二十人……これで三十五人か。んー、全体の三割くらいだね。もうちょっと相手の戦力削いでおいたほうがよくない?」
「だな。五音はお上品にまとまりやがって、集客力がイマイチなんだよ、集客力が」
「そうかい。なら好きに大暴れするといいさ。私以上の成果を出して、梅雪さまのお褒めにあずかれるようにね」
「おう、言ったな?」
肩をすくめる五音に対し、六夜がニヤリと挑戦的な笑みを浮かべる。
「そんじゃま、俺も本気出すとすっか、なッ!」
瞬時に腰を落とす六夜。前かがみの姿勢でぐっと踏み込んだ右足に重心を乗せ、はずみをつけて身をよじる。
ヴンッ!
いまのいままで六夜がかついでいた棍、鋼鉄の棒が空を薙ぐさなかに、キンッとなにかをはじいた。
「矢か。んな飛び道具で俺をどうこうできるかっての」
六夜は青玉のような瞳を細め、余裕綽々でせせら笑う。
「怯むな! 侵入者は生きて帰すなとのお達しだ、確実に射殺せ!」
ぞろぞろとあわただしい足音を受け、八藍はさっと周囲の状況を捕捉した。
「弓兵が十人。人数は少なめだけど、上等な装備だね」
「あー、なんか怪しそうなのは、北東の離れだったか? それなら南西だ。行くぞおまえらァ!」
「あっもう、父さんってば!」
棍を片手に、六夜が喜々として南西の方角へ駆け出す。
「追え、逃がすな!」
射程距離を外れれば、弓は意味をなさない。それを六夜はよく心得ていた。軽功を駆使し、まさに風のような速さで夜を疾駆した。
弓兵のうち五名が、六夜を追って駆け出す。
「血の気が多すぎていけないな、やれやれ……」
「ねぇ俺たちどうしよっか? 五音義父さん」
「六夜が派手に暴れて敵を呼び寄せるから、私が眠らせる。八藍はこれまで通り、九詩たちにこちらの状況を逐一つたえてくれ」
「了解」
そうこう言葉を交わしているあいだにも、五音と八藍を残る五名の弓兵が取り囲む。
「まぁでも、たまには俺だって暴れてもいいよね?」
五音の指示に理解を示しつつも、八藍はそういって構えを取る。
薄緑の瞳を悪戯っぽく細めた笑みが六夜と瓜ふたつだと、五音はなかばため息をつきつつ──
「やんちゃも程々に。人間は、儚いからね」
きゅっと鋭く瞳孔を引き絞った紫水晶の瞳を、闇夜に煌めかせた。
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