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神代の契り㈠
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外面のいい社交辞令などというものは、遥か昔、神代の時代から、すでに始まっていたのかもしれない。
「お言葉の通り、神託を致しましたところ、見事豊作に恵まれました」
或る日。葦原中津国に信奉者を持つ天津神が、高天原にあるオモイカネの邸に足を運んだ。
「あの村が田に引いていた川の水は、作物には向かない。少し手間がかかるが、裏山の湧水に変えたほうが、作物との相性が良かったからな」
「ほう、左様でございましたか! いやはや、流石オモイカネ様でございます!」
書簡へ署名を記す視界に、大げさな賛美を行う神の仕草がちらつく。
たったひと言ふた言がオモイカネの筆を鈍らせ、滲み模様を作ったことを、件の神のみぞ知らぬ。
「……水の質が良くなっても、適度に雨が降らなければ、結局は作物も育たん」
「ご心配は無用でございます。彼の地は毎年必ず雨の降りますところ。不作の要因がわかりましたことですし、我が領地も安泰ですな。はっは!」
自分は知恵の神であるが、並々ならぬ疑問が生まれる。
この世に絶対などない。声高々と断言できる理由を是非とも教授してもらいものだと、素直に感じた。無意味なこととは、内心悟りつつも。
自分は憎たらしいほどに聡明であったから、知っていたのだ。
「ご多忙の折りに、大変失礼致しました。それでは、これにて」
好好爺の笑みを浮かべて腰も低く退室した神が、
「……ふぅ、かなわんなぁ。あのように無愛想な方のお相手は、骨が折れる」
と、扉の板一枚を隔てた向こう側で、なにを言っているのかも。
初めてのことではない。いまさら口うるさく追及するつもりもない。
自分のことよりも真っ先に、声を上げたかったことがあるとするならば。
「……テメェの領地だろうが。自分を崇めてくれる人間くらい、自分で守れよ、阿呆が」
このように聞くに耐えない、罵倒のような言葉のみだ。
「おじさま?」
完全に油断していた。
卓上に肘をつき、眉間に指を当てて嘆息していたオモイカネは、弾かれたように返り見る。
椅子に腰かけた自分よりも低い位置から見上げる、くりくりとした大粒の琥珀は、いつからそこにあったのだろう。
「こら。お兄様と喚べ、お兄様と」
「おにいさま」
「よし、いい子だ」
本気で叱りつけているわけもない。オモイカネは筆を寝かせた硯やら書簡やらを卓上の隅に追いやると、かたわらの幼子をひょいと抱き上げ、膝に乗せる。
「どうしたニニギ。もう昼寝はおしまいか?」
平生ならば奥の部屋で眠りこけているはずの姪が、何故今日に限って起き出してきたのか。表面には出さないが、オモイカネは気もそぞろであった。
「おにいさま、ねよ?」
「またおねむか。まぁ、寝る子は育つしな」
悪いが、もう少し待っていてくれと、普段の余裕でいなすつもりだった。
「……おにいさま」
「今度はなん、」
「ていっ!」
「ってぇ!」
見誤った。直前まで大人しく腕におさまっていた幼子に、よもや強襲を見舞われるとは。
ジンと滲む痛みにそろそろとまぶたを持ち上げれば、眉間をはたいた手もそのままに、ニニギは瞳を潤ませていた。
「わたし、あそびつかれちゃった。でも、ねたらげんきになったよ。だから、おにいさまもねるの!」
「おまえ……」
口をひん曲げて駄々をこねるニニギが、なにを言いたいのか。理解したオモイカネは、たまらずちいさな身体を掻き抱いた。
「……敵わないな」
「おにいさま、おしごとしすぎちゃうから、わたしがみててあげるの!」
「あぁ……ニニギ、ありがとな」
この子はまだ生まれたばかりであるが、ほかのどの神よりも、自分を見ていてくれる。
「今日の仕事は終わりだ。いっしょに寝るか」
「えへへ~」
ふにゃあとはにかむ笑顔が、たまらなく愛おしい。体内に増大したわだかまりが、みるみるうちにほどかれゆく。
「……俺は、おまえがいなきゃ駄目だな」
はじめは、使命感から引き受けた親代わりだった。
だけれども、たとえ妹や義弟が改心して帰って来たとしても、この腕の中にあるぬくもりを返すつもりには到底なれない。
それほどまでに、実の姪を愛してしまっていたのだ。
「お言葉の通り、神託を致しましたところ、見事豊作に恵まれました」
或る日。葦原中津国に信奉者を持つ天津神が、高天原にあるオモイカネの邸に足を運んだ。
「あの村が田に引いていた川の水は、作物には向かない。少し手間がかかるが、裏山の湧水に変えたほうが、作物との相性が良かったからな」
「ほう、左様でございましたか! いやはや、流石オモイカネ様でございます!」
書簡へ署名を記す視界に、大げさな賛美を行う神の仕草がちらつく。
たったひと言ふた言がオモイカネの筆を鈍らせ、滲み模様を作ったことを、件の神のみぞ知らぬ。
「……水の質が良くなっても、適度に雨が降らなければ、結局は作物も育たん」
「ご心配は無用でございます。彼の地は毎年必ず雨の降りますところ。不作の要因がわかりましたことですし、我が領地も安泰ですな。はっは!」
自分は知恵の神であるが、並々ならぬ疑問が生まれる。
この世に絶対などない。声高々と断言できる理由を是非とも教授してもらいものだと、素直に感じた。無意味なこととは、内心悟りつつも。
自分は憎たらしいほどに聡明であったから、知っていたのだ。
「ご多忙の折りに、大変失礼致しました。それでは、これにて」
好好爺の笑みを浮かべて腰も低く退室した神が、
「……ふぅ、かなわんなぁ。あのように無愛想な方のお相手は、骨が折れる」
と、扉の板一枚を隔てた向こう側で、なにを言っているのかも。
初めてのことではない。いまさら口うるさく追及するつもりもない。
自分のことよりも真っ先に、声を上げたかったことがあるとするならば。
「……テメェの領地だろうが。自分を崇めてくれる人間くらい、自分で守れよ、阿呆が」
このように聞くに耐えない、罵倒のような言葉のみだ。
「おじさま?」
完全に油断していた。
卓上に肘をつき、眉間に指を当てて嘆息していたオモイカネは、弾かれたように返り見る。
椅子に腰かけた自分よりも低い位置から見上げる、くりくりとした大粒の琥珀は、いつからそこにあったのだろう。
「こら。お兄様と喚べ、お兄様と」
「おにいさま」
「よし、いい子だ」
本気で叱りつけているわけもない。オモイカネは筆を寝かせた硯やら書簡やらを卓上の隅に追いやると、かたわらの幼子をひょいと抱き上げ、膝に乗せる。
「どうしたニニギ。もう昼寝はおしまいか?」
平生ならば奥の部屋で眠りこけているはずの姪が、何故今日に限って起き出してきたのか。表面には出さないが、オモイカネは気もそぞろであった。
「おにいさま、ねよ?」
「またおねむか。まぁ、寝る子は育つしな」
悪いが、もう少し待っていてくれと、普段の余裕でいなすつもりだった。
「……おにいさま」
「今度はなん、」
「ていっ!」
「ってぇ!」
見誤った。直前まで大人しく腕におさまっていた幼子に、よもや強襲を見舞われるとは。
ジンと滲む痛みにそろそろとまぶたを持ち上げれば、眉間をはたいた手もそのままに、ニニギは瞳を潤ませていた。
「わたし、あそびつかれちゃった。でも、ねたらげんきになったよ。だから、おにいさまもねるの!」
「おまえ……」
口をひん曲げて駄々をこねるニニギが、なにを言いたいのか。理解したオモイカネは、たまらずちいさな身体を掻き抱いた。
「……敵わないな」
「おにいさま、おしごとしすぎちゃうから、わたしがみててあげるの!」
「あぁ……ニニギ、ありがとな」
この子はまだ生まれたばかりであるが、ほかのどの神よりも、自分を見ていてくれる。
「今日の仕事は終わりだ。いっしょに寝るか」
「えへへ~」
ふにゃあとはにかむ笑顔が、たまらなく愛おしい。体内に増大したわだかまりが、みるみるうちにほどかれゆく。
「……俺は、おまえがいなきゃ駄目だな」
はじめは、使命感から引き受けた親代わりだった。
だけれども、たとえ妹や義弟が改心して帰って来たとしても、この腕の中にあるぬくもりを返すつもりには到底なれない。
それほどまでに、実の姪を愛してしまっていたのだ。
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