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間章Ⅰ
しおりを挟む「聖女が寝込んだようです」
執務室に入ってきた副官ディーラムが、開口一番にそう報告した。
だが、ギルフェールドは、書類をめくる手も休めずに答える。
「ああ、知っている。昨日の国葬のあとからずっと寝台に篭もっているそうだな」
昨夜のうちにその報告は受けていた。
聖女付きの侍女にもどんな様子か既に確認済みだし、とりたてて目新しく騒ぐような話題でもない。
しかし、ディーラムは首を振った。
「今日の昼過ぎに起き出したそうです。で、昼食も取らずにスタイン師を呼び出したと」
「スタイン師を?」
スタイン師は学術院の学士だ。
異界から来た聖女が言葉を覚えたがっているのを知り、人選を重ねた末選び出された彼女の教師である。
選抜のためには膨大な検討がなされた。
言葉を教えるという指導力はもとより、性格、思想、家族構成、資産状況、性癖、政治的立場・・・。そのすべてに及第し、結果として選ばれた――というより残ったのがスタイン師だ。
最終的には、国の智の一、と称えられる賢者ダーレント立ち会いのもと、聖女との顔合わせが行われた。そこで問題もなく、賢者のお墨付きを得たことで、彼に決定したという経緯がある。
「レスターからの報告によると、聖女はスタイン師に『聖女とはなにか』と訊ねたそうです」
「スタイン師の答えは?」
「かねてからの手はず通り、この国を救う御方である、と。・・・ですが」
ディーラムの眉間に皺が寄った。
「その答えで満足することなく、国を救うとはどういうことか、自分は聖女と呼ばれるなにをしたのか、さらに問うたそうで」
「・・・知ったのか。『カダルティーヤ平原の奇跡』を」
「はい。モルガン帝国軍を壊滅させたのが自分だと聞かされて、そして――」
そこで、ディーラムのしかめ面に困惑が混じった。
「ひたすら吐いたらしいです」
「吐いた――」
「胃の腑になにもなくなっても、まだ吐き気が止まらないようだったので、レスターが落として無理矢理眠らせたと」
「大丈夫なのか?」
「意識のないままではありますが、医師には診察させたそうです。水分さえ取って安静にしていれば、問題ない、との診断でした。ですから、侍女には定期的に唇を湿すように指示してあります」
ディーラムはため息をついた。
「正直、予想外の反応でした。自分がこの国を救った功労者と知ったら、得意になってどれだけ我が儘放題になるかと少々不安になっていたくらいなのに。なにを吐くことがあるんでしょう」
「・・・耐えがたいほど、辛かったんだろう」
「だから、どうして辛いなんて!? 敵を撃退したんですよ? 勲一等表彰ものの功績をあげておいて、どうして!?」
心底納得出来ない表情で、ディーラムは続ける。
「我々を――いや、この国の多くの命を救った功労者なんですよ? 今後、この国において栄耀栄華は思いのままだし、すべての国民の尊崇と感謝を一身に受ける存在だというのに」
ディーラムの意見はもっともだ。騎士ならば誰でもそう考えるだろう。騎士――いや、この国の民であるなら。
自分もあと五年も若かったなら、同様に思っただろう。だが、すべての者がそうとは限らないことを、今の自分は知っている。
この世界には、もっと心優しき者がいるということを。
「あのな、ディーラム。あの聖女は、この国の民ではない」
「わかってますよ。異界からの招き人でしょう?」
「そうだ。此度はたまたま我が国が招き入れたがな、もし状況が違えば、彼女はモルガン帝国に招喚されていたかもしれないんだぞ」
「え?」
「そうすれば、彼女の敵だったのは俺たちだ」
聖女にとって、この世界での敵や味方というのは、その程度の区別しかない。
いや、ひょっとしたらこの世界のすべてが敵なのかもしれない。彼女が属する世界から無理矢理引きはがされて連れてこられたのだから。
言葉も通じない、文化も生活習慣も違う、知り合いさえいない場所だというのに、彼女はよくやっている、と思う。
嘆き悲しんでいたのは最初の二、三日だけで、あとは涙を拭いて自分の足で立ち上がった。その毅さとしなやかさに感嘆を禁じ得ない。
だが、良く出来た娘だとは思うものの、仮にも聖女だというならばその程度は当然のような気もした。なにより、喪失感と痛みが大きすぎて、彼女と関わるのを心が拒否している。正直、聖女のことはあまり考えたくなかった。
しかし。
吐いている、と聞いて、ああ、やはりあの娘は聖女なのだな、という思いが胸に落ちた。
心優しき、罪なき娘。
「聖女にとっては、モルガン帝国は滅ぼすべき憎い敵ではないんだ。たまたま招喚された国と敵対しているだけの、知らない人々だ。その人々を殺したと知ったら、心を痛めるのも当然だろう」
ギルフェールドはディーラムに肩をすくめてみせる。
「おまえは平気だったのか? 初めてその剣で人を斬ったとき。ましてや彼女は騎士でもなんでもない、うら若き乙女だぞ」
「あー、なるほど。そういうことですか」
初めてディーラムが腑に落ちた表情になった。
「モルガン帝国憎し、で、敵だとしか認識してませんでした。すみません。そうですよね。なにもしらない乙女からしたら、いきなり人殺しだと言われたようなもんなんだ」
「わかったら、今後、過剰に聖女の功績を持ち出すことのないよう、侍女たちにも徹底しておけ。たとえ賞賛だとしても、それは傷口に塩をなすりつけるような行為だからな」
「了解です」
「明日は起き上がれそうなのか? どの程度の衝撃を受けたのか、心の傷は見えないからやっかいだな」
「それはなんとも。気になるなら、ご自分で確認するしかないかと」
ディーラムが肩をすくめる。
「聖女に近づける者は限られてますからね。なにより、あなたあの御方の『騎士』じゃないですか」
他人に任せてどうする、と言外になじられて、ギルフェールドは顔をしかめた。
聖女は尊くあがめ奉られなければならない立場。それは今後変わることはない。
しかし、問題なのは、彼女が異界からの客人で、この国とこれまでなんの関わりもしがらみもなかった、という点だ。
縁故も後ろ盾もない。逆に言うと、彼女さえ取り込んで担ぎ出せば、どんな立場の者でも権力を得ることが出来る。
だからこそ、国は、聖女を囲い込んで、下手な者を近づけないよう、護衛という名の軟禁状態に置いているのだ。
ギルフェールドが聖女の『騎士』として誓約せざるを得なかったのは、完全に王弟ヴァランドスの計略および嫌がらせである。
確かに、すべての事情を飲み込んでおり、また、騎士団長でこの国でも指折りの彼以上に聖女の騎士としてふさわしい者はいない。ギルフェールドが聖女の騎士だと進み出れば、聖女に仇を為そうという輩はいないだろう。それはわかる。
だが。
自分は、剣を捧げるつもりなど毛頭なかったのに。
ただ一人、あの御方を除いては――。
王家に逆らう意思のないことを示すために、あの場ではヴァランドスの提案に乗るしかなかった。
そんな自分が許せない。
なにも悪くない聖女に、言葉にならない怒りが向かう。そして、そんな自分がまた許せない。
わかっているのに。頭では理解しているのに。沸き上がる憤りの感情を抑えつけるので必死だ。
こんな自分が騎士だなんて嗤わせる。
だから、なるべく彼女には近寄りたくないのに――。
しかし。
暗闇の中、寝台でぽつんと一人、身体を丸めているだろう聖女の姿が脳裏に浮かんだ。
哀れだと思う。不憫だとも思う。感謝もしている。部下たちを、この国を救ってくれたことに。
あのとき、なにを失っても、自分の魂を捧げても構わないから、モルガン帝国を打ち払ってくれと灼けるほど願ったことは忘れていない。その願いが聞き届けられたのかはしらないが、もたらされたのがあの聖女で――。
喪ったものが、自分の命だったらよかったのに。
そうすれば、あのけなげな聖女に心からの尊敬と感謝を素直に捧げることができたろうに。
結局、いちばん腹立たしいのは自分自身なのだ。
この国を守り切れなかった自分。
罪もない聖女に怒りを向ける自分。
そして――あの御方を犠牲に、のうのうと生き続ける自分。
「――聖女の様子を見てくる」
ギルフェールドは立ち上がった。
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