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間章Ⅲ
しおりを挟む遠い遠い、それこそ百万も千億も昼と夜がすぎるまえの遠いむかし。
生まれたてのこの地には、もっと力が満ちていました。
野にも、山にも、川にも、海にも。
すべてが力に満ちて、美しく、きらきらとかがやいていました。
その力にみちた風を胸いっぱい吸いこむだけで、なんでもできたのが、神々と、神獣です。
しかし、時がたつにつれ、力はだんだんと弱くなり、神々と神獣は時を渡って行ってしまいました。
この地に残されたのは、人だけです。
*
まさか、自分があんな光景をみることになろうとは。
ギルフェールドは、既になんどついたかわからないため息をもらした。
気を抜くと脳裏に浮かぶのは、そこら中光の粒がキラキラと輝いている鮮やかな光景。
生まれてから一度も見たことがない景色。
伝説やおとぎ話にしか聞いたことのない風景。
あれはたぶん、いや、おそらく――この世の理とは別の力を秘めたもの。
魔力。
はるか昔、それこそ、現存する最古の文献の時代にいくつか書き留められた以外は、口伝で伝わっているだけの、今は既に失われた力。
完全に失われたのでなく、ただ薄まったのだという説もある。人のほうが、魔力を認識する能力を失ったのだという説も。
いまでも、北方で鎖国を続ける神秘の国トゥーヤーンでは魔法が研究されているとか、モルガン帝国には密かに魔導士部隊が存在するとか、囁かれる話はいろいろとあるものの、どれも噂の域を出ない。
だが。
ディーラムの結婚式の際、足を踏み外しそうになった聖女を支えようと、触れたその瞬間。
辺りがいきなり輝いてみえた。
空中に、花びらだけでなく、キラキラと漂う光の粒。
あれはおそらく、魔光砂と呼ばれる魔力の結晶だ。
はじめは目の錯覚かと思った。
しかし、試しに聖女から手を離してみたら、光は消えた。そして再び触れてみると――。
まいった。
聖女が聖女たる力を顕したのは、この地に召喚された時ただ一度だけ。
その後は、特別なところはなにもなく、単なる普通の乙女だという認識で皆一致していたというのに。
それが、魔力に関わるなにかを持っているとなれば、恐ろしく話がややこしくなる。
少なくとも、聖女には魔光砂が見えていた。
だが、それがなんなのかは知らないらしい。侍女たちがなにか花びらに細工をしたと思っているようだった。
ということは、普段は聖女にもあの光景が見えているわけではなさそうだ。おそらく、初めてのことなのだろう。
確かに、以前ギルフェールドも、足を痛めた聖女を抱え上げたり、寝台から起こして水を飲ませたりして、その体に触れたことがあったが、なにか異状を感じたことはない。今回だけが、特別だったのだ。
なにが、違った?
結婚式という神聖な場、か?
聖堂――は、以前国葬の折に一度足を踏み入れたことがあるはずだから、その折見たことがあるのなら、花びら云々の台詞は出てこないだろう。
ずいぶんと興奮していたようだから、感情の高まりが引き金になったのかもしれない。あとは、歌――か。
あの歌は見事だった。異国の言葉だったからかもしれないが、荘厳で、なにものにも侵せない神聖な響きに満ちていた。
だが、しばらくは歌わないよう禁じなければ。聖女には魔光砂が見えている、と、誰かに知られるわけにはいかない。
そして。
聖女のあの力は、今の人の目には見えなくなったほどかすかな魔力でも、感知するものなのか。
それとも、魔力そのものを、生み出す力なのだろうか。
どちらにしても、厄介な。
これが知られれば、聖女が望んでいる『元の世界へ還る』ことなど、話にならなくなる。利用され、縛られ、使い倒される未来が目に見えるようだ。
還してやりたい。
いや、還ってほしい。
ライラアーレが、その命と引き換えに呼び出した娘。
自らの世界から引き離され、それでも前を向こうとする、不憫で健気な娘。
聖女と呼ぶのもやぶさかでないほど、まっすぐで心根が優しい娘。
不幸にはなってほしくない。
だが、自分の視界に入ってほしくないのも事実なのだ。
彼女の存在は、すなわち、この国を、ライラアーレを、守り切れなかった己の無力さの表れだから。
還してやりたい。
還ってほしい。
なにが、『カダルティーヤの英雄』だ。情けない。
ギルフェールドは、再び、深く深くため息をつくと、呼び鈴を鳴らした。
*
呼び鈴に応えて、しばらくして現れたのはレスターだった。
ディーラムが結婚で休みを取っているあいだの副官の務めを命じてある。
「お呼びですか」
レスターの顔にはなんの表情も浮かんでいない。
もともと無表情な青年だが、最近、とみにそれに磨きがかかってきたきらいがある。
最近――聖女の護衛を務めるようになってから。
「おまえにひとつ確認しておきたいことがある」
レスターは身じろぎ一つしない。ただ、視線で先を促しているのがわかる。
「おまえは聖女に対してどういう感情を抱いている?」
レスターの目がほんの少しだけ見開かれる。しかし、答えた声は冷静だった。
「お護りするべき大切な御方かと」
「建前はどうでもいい。おまえが個人的に聖女を大切にしているのは知っている。それを咎めるつもりもない」
ギルフェールドはレスターの言葉を遮るようにして言った。
「それがどういう感情に基づいているのかを聞いている。聖なる存在に対する尊崇か。我々を救ってくれたという敬愛か。それとも寄る辺ない娘への同情か。一人の女に対する恋慕か――」
「失礼ですが、なぜそんなことをお答えしなければならないのでしょうか」
「おまえがどれだけ聖女に傾倒しているか知りたいだけだ。ただ、力になりたい、大切にしたいというだけなら別に構わない。だが、聖女を必要以上に祀り上げたり、自分一人のものにしたい、という妄執を抱くようなら――」
「ああ……理解しました。団長はご存じでしたね」
レスターは小さく頷いた。
「私が、聖女に入れあげて、彼女の望みを邪魔しないかがご心配なんですね。元の世界に戻りたい、という――」
「聞いたのか?」
「はい。報告はしませんでしたが。その理由も団長はご存じかと」
「報告したら邪魔されるのがおちだからな。……そうか。聖女はおまえに話したか」
しばらく前に、聖女の元気がなくなったことがあった。
そのとき、聖女と話をしたのがレスターだ。聞き役になって、悩みを吐き出させたようだ。
口外しないことを条件に悩みを話してもらったから、報告はしない。上には適当なことをでっちあげて伝えてほしい、と、悪びれもせず言い募るレスターに驚いたが、だからこそ、聖女の信頼を得られたのだと思う。実際、その日から聖女の様子はもとに戻ったようだった。
だが、ギルフェールドには一つだけ気がかりなことがあった。
レスターが聖女を構う理由が、一人の女として愛情を抱いているのなら、彼女が元の世界へ戻りたい、という望みを邪魔するかもしれない、と思ったのである。
だが、どうやら杞憂のようだった。
「ディーラム副官不在の間に、私を代わりに指名なさったのは、聖女の望みに関する情報交換がしやすいとお思いになったからでしょう?」
「そこまでわかっているなら話は早い。聖女にはどこまで聞いている?」
「学術院の中で、伝説や伝承に詳しい者を選び出して精査してる段階だと。ただ、団長はお忙しいだろうから、任せきりにするのは心苦しいと。だから、そのあたりは私が引き継ぎたいと思うのですが」
「そうしてもらえるならば助かるが。これまでの資料を用意するから、少し待てるか」
「明日で結構です。それより、あと一つ許可をいただきたいことがあるのですが」
「なんだ」
「聖女が、言葉だけでなく、他のことも学びたい、と」
「他のこと?」
「この国の成り立ちや、産業や、他国とのかかわりや、そのようなことです」
「歴史や地理、政治――ということか」
なるほど。言葉がけっこう話せるようになった現在ならば、それらのことも学習できるだろう。
元の世界へ戻る、という望みがあっても、それがいつになるのかまったく見えない以上、今の生活に必要な情報を手に入れたい、と考えるのは、あの利発な娘にとっては当然かもしれない。
「許可をいただければ、その辺りを教える教師の人選を進めますが。それとも、それもスタイン師に任せますか?」
「そこは聖女の意見を聞いてみてくれ。すぐに学びたいならスタイン師に任せるしかない。だが、彼も多忙の身だから、これ以上の時間はさけないだろうし、専門でもない。新たに専門の歴史学者などを選び出すなら、人選にいくらか時間が必要となる」
「なるほど。わかりました。聖女に意見を聞いてみます」
「頼む」
ギルフェールドはうなずいた。
レスターが、元の世界へ戻りたいという聖女の望みを聞いているのではないかと思って、一度じっくり話をしようとは思っていたが、ここまで使い勝手がいいとは思わなかった。
正直助かる。
これ以上、聖女と関わる時間を増やさずにすむ。
「では、さっそく。私はこれで」
レスターは一礼すると、部屋を出ていこうとする。その背に向かって、ギルフェールドはふと思いついて声をかけた。
「ああ、そうだ。教師の一人に、神学の専門も加えておけ」
「神学、ですか?」
「この国で生きていくには、最低限の信仰について知っておいたほうがいいだろう。仮にも聖女と呼ばれる身なんだ。それから――」
少し考えて付け加える。
「魔術や魔法のことについても」
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