このつまらない世界に風穴を

阿波野治

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 ようやく銃声が鳴りやみました。
 男は銃を構えた両手を下ろします。教室の中で心臓の動いている生き物は、もはや二人しかいません。一人は、教室のほぼ中央、死体の山に囲まれて佇む男。もう一人は、教室の隅、おびただしい血を髪の毛と服に浴びて立ち尽くしているミクです。

 どうしてミクは殺されなかったのだろう、とミクは疑問に思いました。
 ミクは体が小さいので、奇跡的に銃弾を避けられたのでしょうか?
 それとも、男からしてみれば、生かしておくだけのなんらかの価値があるのでしょうか?

 男の右足が動きました。死体を踏み越え、踏みつけながら、真っ直ぐにミクへと向かってきます。ミクには逃げる気力も、逃げ場も残されていないから、間合いを詰め、至近距離から銃を撃って確実に殺すつもりなのだ。そうミクは考えました。

 三メートルほどの距離を置いて、男は足を止めました。ミクは男の顔を見つめます。目深に被られたヘルメットの庇が陰を作っていて、男の目鼻立ちや表情は窺い知れません。
 不意に、男と目が合ったような気がしました。次の瞬間、驚くべきことが起こりました。
 男が、両手の銃を床に投げ捨てたのです。
 ミクは目を丸くして男を見返しました。

 男はヘルメットのベルトを外し、ヘルメットを脱ぎました。中に収まっていたふんだんな黒髪が解き放たれ、重力に従って一斉に垂れ、毛先が男の胸にかかりました。ヘルメットを静かに床に置き、顔にかかった前髪を両手の指先で左右に分けます。

 露わになった男の顔は、男ではなく、若い女のそれでした。
 女の左目の下には、横並びになった三つのホクロがあります。

 女は、ミクに微笑みかけました。母親が幼い我が子に向かってするような、清らかな、優しさと慈愛に満ち溢れた微笑みです。

「……ありがとう」

 ミクは女に向かって言いました。言葉がひとりでに唇からこぼれた、という表現の方が正しいかもしれません。
 女は微笑んだまま、穏やかに頭を振りました。両膝に両手をついて上体を屈め、目の高さをミクと同じにします。そして、こう言いました。

「ありがとう、って言ってくれてありがとう。とても嬉しいけど、でも、あなたが私にお礼を言う必要なんてどこにもないよ。だって、あなただっていつかは――」

 女が全てを言い終わらないうちに、突然、ミクは激しい目眩に襲われました。視界が霞み、意識が急速に遠のいていきます。
 それでもミクは、女が伝えようとした言葉がなんなのかを、女の唇の動きを見て確かめて、それから気を失いました。


* * *


「間宮! 間宮!」

 自分の名前を呼ぶ声に、ミクは意識を取り戻しました。顔を上げると、田中先生が眉をひそめてミクを見下ろしています。
 ミクは寝惚け眼で周囲を見回しました。
 ミクがいるのは教室の中で、クラスメイトたちが迷惑そうにミクに視線を注いでいます。彼らは、全員生存していました。床にも壁にも机にも、着弾した形跡は認められません。

「期末テスト前の大事な時期に居眠りとは、全くどういう神経をしているんだ、お前は。それも俺の授業の最中にとは、いい度胸をしているじゃないか。言い分があるなら言ってみろ。どうなんだ? ええ?」

 田中先生はいつも生徒に説教するときのように、相手を心の底から見下した目つきで、くどくどとミクを責め立てます。その様子を傍観している男子生徒の大半は、嘲笑うような表情を浮かべています。女子生徒の大体は、近くの席の女子と顔を寄せ合ってひそひそ話を交わしています。いつもと代り映えのしない、笑い出したくなるくらいにつまらない光景です。

 田中先生の説教はまだ続いていますが、ミクは首を反時計回りに回し、窓の方へ向けました。美しく磨かれたガラスの鏡に、ミクの上半身が映し出されています。年齢よりもいくらか幼い印象を受ける顔をした、ちっぽけな少女の上半身が。

 ……早く大人になりたいなぁ。

 左目の下のホクロを指先で撫でながら、心の底からそう願いました。
 それはミクが、このつまらない現実の中で見出した、紛れもない希望の光でした。
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