緘黙記

阿波野治

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転校④

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 父親が椅子を蹴って立ち上がり、息子の左肩に右拳による一撃を見舞ったことで、父子による殴り合いが勃発した。物音を聞きつけて書斎に駆けつけた母親がドアを開け放った時には、父親は息子を組み伏せ、慎也は悪あがきのように弱々しく父親の右脚を殴りつけている、という戦況だった。小中学校の間だけとはいえ、野球部員として練習に汗を流す日々を送り、大柄ではないが恰幅のいい父親と、母親に似て小柄で、不登校に陥って以来、終日自室に引きこもっている慎也とでは、勝負は戦う前から決しているも同然だった。
 父親は慎也を解放すると、今宵の話し合いの開始から組み伏せるまでに彼が見せた反抗的な態度の数々を嫌味たらしく並べ立て、痛烈に非難した。慎也はすごすごと自室に引き下がった。ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋め、嗚咽する。僕は悪くないのに、なぜこんな目に遭わなければならないんだ?
 その日より、書斎における父子の殴り合いが深見家の夜の恒例行事となった。結果は例外なく慎也の敗北に終わった。腕力に屈服させられ、最重要問題の解決が置き去りにされるという、二重の意味での敗北だった。慎也のベッドの枕やシーツは毎日のように彼の涙を吸い込んだ。僕は悪くないのに、なぜこんな目に遭わなければならないんだ? 叫びは自らの胸の内側で反響するばかりで、本人以外の誰の心にも届かない。
 息子に学校へ行く意志は全くない。その一点だけは、父親としても認めざるを得なかった。何らかの手を打たなければ手遅れになる。慎也の両親が遅まきながら抱いた危機感を、ほぼ同時期に、遅まきながら学校側も抱いたらしい。双方の思惑はここに一致、中学校の応接室を舞台に、両陣営による会談が行われることになった。
 参加したのは、学校側からは、慎也のクラスの担任教師と校長。深見家からは、慎也と両親。慎也は両親に説き伏せられ、不本意ながら列席した格好だった。
 会談は全般的に曖昧な調子で進行した。慎也は自身の不登校の理由を両親にさえ打ち明けていないのだから、そうなるのも必然といえた。担任教師は、慎也を除いた四人の中で唯一、その重要な手がかりを得ていたが、加害者の要所を押さえた隠蔽工作により、担任教師の目には、彼らの行為は単なる悪ふざけと認定するのが適当なものにしか見えていなかったし、被害者本人が「不登校の理由は虐めを受けているからだ」と明言しない以上、それを前提に話を進めがたかった、という事情もあったのだろう。
 会談が行われている間、慎也は応接室の慇懃無礼で仰々しい雰囲気に気圧され、拘束から解放されるその時を俯きがちにひたすら待った。話し合いに参加する意欲は微塵も湧かなかった。なぜならば、大人たちは彼の存在を完全に無視して言葉を交わしていたのだから。
 その日の会談以降も、慎也が参加しない形で、両陣営による話し合いが何度か行われた。結果、転校前に在学していた中学校に再び通うことが決まった。転校後に不登校に陥ったのだから、不登校に陥った原因は環境が変わったことに他ならない。従って、元の中学校に通うようにすれば問題は解決する。彼らはそう至極単純に考えたらしい。
 慎也は内心複雑だった。父親と不毛な諍いを繰り広げ、敗北感と屈辱感を胸に溜め込む日々を過ごしたり、虐めに耐えながら毎日登校したりするよりは、その道を歩む方が楽だろう。しかし、それはあくまで相対的に楽だ、というだけの話だ。転校前の中学校で何人ものクラスメイトからからかわれ、不登校に陥ることこそ免れていたが、いつ陥ってもおかしくない状態だったことを、彼は決して忘れてはいなかった。
 クラス替えが行われた結果、性格が善良で、幼稚ではないクラスメイトの割合が増える可能性だってある。中学一年生の晩冬に転校するか否か迷った際、そう考えた慎也だったが、二度目の転校に際して、そのような考えを持つことはなかった。
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