緘黙記

阿波野治

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十年後

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 月日は矢のように流れ、慎也の三十歳の誕生日を一週間後に控えた初夏。平日だったが、母親の仕事は休みだったため、母子二人での昼食となった。
 普段のように手早く食事を済ませ、自室に戻ろうとした慎也を母親が呼び止めた。彼の全身は強張った。明日で三十歳の大台に乗るという意識を、彼は起床時から一貫して持ち続けていた。不干渉を貫いてきた母さんが、とうとう僕に厳しい態度で臨むつもりになったのだろうか? 恐る恐る振り向くと、
「試しに一回、心療内科へ相談に行ってみない?」
 全くもって思いがけない発言だった。表情、口調、共に拍子抜けするほど穏やかだった。
「慎也はお母さんの隣で座っているだけでいいから。今までの慎也のことを、お母さんが先生に話すから」
 心療内科。慎也はその言葉に馴染みはなかったが、存在は知っていた。気軽に受診できる精神病院、程度の認識だった。
「予約を入れなきゃいけないみたいだから、一週間以内に、行くか行かないか決めておいて」
 話はそれで終わりだった。自室に戻り、中学生の頃より使用しているベッドに仰向けに寝そべる。
 心療内科へ行こう。母親はそう提案した。人見知りはいずれ治る。一貫して無責任なまでに楽観的だった、あの母親が。
 その日の夜、三人は口数少なく夕食を終えた。この頃になっても父親が時折口にしていた当てこすりは、一度も発信されなかった。提唱者か否か、主導者か否かは定かではないが、父親が心療内科の件を把握しているのは間違いなさそうだ。
 有り余る時間を利用して、障害や障害者という言葉について、あるいは概念について思案する。小中高と、障害者という単語を交えて嘲笑された記憶があるが、それに該当する人間だという自覚はなかった。二つの言葉、あるいは概念に関する深い知識は有していない。知っているのは、障害者手帳を持つ者は公共交通機関の運賃が無料になる、ということくらいのものだ。
 例えば、路線バスを利用するにあたって、言葉を発する必要は一切ない。停留所で待っていれば、それを認めた運転手がバスを停留所に停車させる。乗車口のドアはひとりでに開く。乗車後、乗客に挨拶をする必要はなく、乗車中、乗客と言葉を交わす必要はない。降りたい停留所が近づけば、黙って降車ブザーを押せばいい。運賃を過不足なく支払いさえすれば、運転手と喋ることなく降車できる。
 それならば、あるいは僕にも。

 慎也は三十歳になった。
 平日だったが、先週に引き続き母親の仕事は休みだったため、二人で昼食をしたためる予定になっていた。そろそろ母さんからかかってくる頃だ、と思いながらベッドに仰向けに寝転がっていると、自室のドアがノックされた。反射的に上体を起こした。いつもは食事ができたことは電話で知らせる母さんが、今日に限ってなぜ?
「慎也。もうすぐお昼だけど、その前に心療内科の件、どうするか聞かせて」
 どくり、と心臓が音を立てた。
「行くの? 行かないの? どっち?」

*

 書き進めていた小説は行き着くところまで行き着いた。
 強引にでも書き進めるか、潔くペンを置くか。
 慎也の自室のドアをノックする音が響き続けている。
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