アリス・イン・東京ドーム

阿波野治

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極悪人の朝

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 ジャバウォックに追いかけられる夢を見た。
 俺の家のリビングで般若心経を熱唱し、頭頂の風船を割られそうになった恨みを晴らすべく襲いかかってきた、全体的に緑色で、おっぱいが大きくて、全身がぬるぬる・てかてかしる、あの少女に。

 夢は夢らしく、俺がジャバウォックに追いかけられる場面からいきなり始まった。といっても、最初俺は少女がジャバウォックだとは気づかず、単なるいかれた女だと認識していた。少女は頭の螺子が飛んでいて、俺は理不尽な理由から追いかけられ、危害を加えられそうになっている。自らが置かれている状況を、夢の中の俺はそう解釈していた。
 なんの面白味のない外観の住宅が左右に建ち並ぶ、無闇やたらに曲がりくねった狭い道を、十メートルほどの間隔を申し合わせたように一定に保ちながら、俺はジャバウォックに追いかけられ、ジャバウォックは俺を追いかけている。両者とも走行速度は小走り程度で、微笑んでいた。全力疾走していなかったし、微笑んでいたが、追いつかれたが最後、我が身になんらかの好ましくない事態が起きると俺は確信していた。だから走った。走り続けた。

 やがて殺風景な広場のような場所に出た。中央に男が立っている。顔はぼやけていてはっきりしない。右手に木製バットを握り締めている。体つきは屈強だ。プロ野球選手だ、と俺は思った。屈強な体つきをしていて、木製バットを持っているのだから、プロ野球選手に違いない。そう判断した。
 俺はプロ野球選手にすがりつき、助けを求めた。はっきりとは覚えていないが、緑色のあいつをなんとかしてほしい、みたいな意味のことを言ったように記憶している。するとプロ野球選手は、

「今シーズン限りでクビだ、今シーズン限りでクビだとファンたちは騒いでいるが、僕はチーム内で地位を確立しているじゃないか! 彼らを黙らせてくれよぉ!」

 などと喚き立てて、逆に俺に泣きついてきた。
 泣きつかれたが、他人の懇願に耳を貸すだけの精神的余裕は俺にはない。プロ野球選手の言葉を無視し、繰り返し助けを求める。心にゆとりがないのはプロ野球選手も同じらしく、ひたすら身の潔白を俺に訴える。

 ジャバウォックが広場に到着した。俺はすぐにそれに気がついたが、プロ野球選手は泣き喚き続けている。
 いくら逃げてもきりがなく、他人の助けも期待できないなら、ジャバウォックを返り討ちにするしかない。
 幸いにも、武器は手近なところにある。俺はプロ野球選手の手から木製バットを引ったくった。
 瞬間、プロ野球選手は忽然と消え失せ、木製バットは手乗りサイズの兎の置物になってしまった。

 俺は二者択一を迫られた。兎の置物を武器に敵と戦うか、それとも逃げるか。そんな二者択一を。
 選択を誤れば取り返しがつかない事態に陥るに違いない。心臓がばくばくと音を立て始めた。心音は次第にボリュームを増していくとともに、別の音へと変化していくらしい。二つから一つを選ぶ作業も忘れて、俺は音に耳を傾けた。心音はなんの音に変わろうとしているんだ?
 掴めそうで掴めない、もどかしい時間が悪戯に流れ、やがて不意に悟った。――時計の針の音だ。

 夢の中の俺が悟った瞬間、現実の俺も目覚めた。そして、ああ、夢だったんだな、と気がついた。

 目の前には、ヘッドボードに置かれていたはずのアナログ時計があった。なにかの拍子にベッドに落下し、横を向いて眠っていた俺の顔の前まで転がったらしい。
 目を覚ました大抵の人間がやるように、あくびと伸びをワンセットに行う。目頭にこびりついた目やにを人差し指でこそげ落としながら、隣に視線を向けたが、アリスの姿はない。
 了解は事前に取りつけていたとはいえ、やはり一緒のベッドは嫌だったのだろうか。それとも、大人の体に一時的になった件のせいで、気まずくなったのか。無理もないな、と思う。おっぱいとか、太ももとか、リビドー全開でガン見したし。

 ……とはいえ。

「なんか凹むなぁ。オセロを五ゲームもした仲なのに」
「七ゲームよ」

 いきなり声がしたので、肩が跳ねた。ベッドの下からだ。覗き込むと、真っ白なソックスを履いた足が覗いている。
 ベッドと床の下に手を突っ込み、か細い足首を引っ掴む。引っ張り出すと、アリスだった。

「朝っぱらからなにやってんの。ていうか、よくそんな隙間に入れたな。物理的に無理じゃね?」
「入れたんだから、物理的に可能だったんでしょう。タクマの寝相が悪かったせいで、落ちたの」
「いや、タクマじゃないから。ていうか、落ちたなら戻ろうぜ。……あっ、弛緩してるから無理なのか」
「ええ。高低差があると、少し難しいわ」
「助けを呼んでくれればいいのに。水くさいな」
「呼んだけど、応答がなかったから」

 どうやら全面的に俺に非があるらしい。切符代を支出したくないあまり、コインロッカーにアリスを預けた極悪人の俺も、流石に申し訳ない気持ちになる。

「ごめんな、アリス。寒くなかった?」
「全然。わたし、寒さには強いから」
「無理してない?」
「別に。そういう体質だから」
「マジかよ。いつの間にか戸棚の中にいたり、体が弛緩してるのに金沢から東京まで移動したり、食わなくても平気だったり、大人になったり……。お前、色々すげぇな」
「そうかしら」

 アリスを抱え上げてベッドに戻す。そんなに凄いなら、自力でベッドにくらい戻れそうだが――まあ、いいだろう。
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