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朝食、蜜柑、そして出立
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その場で着替えを、洗面所で洗顔と歯磨きを、トイレで小用を済ませる。顔面と口腔と膀胱がさっぱりすると、古謝さんに会いたくなった。
「朝飯、ルームサービスを頼もうと思うんだけど、アリスはなにがいい?」
「わたしはいらないわ」
「晩飯も食っていないのに、大丈夫か?」
「そういう体質だから」
無理しているのでも遠慮しているのでもなく、本当に食べなくても大丈夫らしい。全く、安上がりなやつだ。
「女が大好きサーモンと鰐梨のサンドウィッチ」という挑発的な名前の一品と、「まずい青汁」なるドリンクを注文することに決め、フロントに電話をかける。
「おはようございます」
聞こえてきたのは、ふわっと柔らかな古謝さんの声。注文を述べると、
「私も好きです。いいですよね、鰐梨」
好きです。その一言に胸がきゅんとなる。大好き、ではなく、好き、という言葉をチョイスしたのも、いいですよね、鰐梨、と先に言ってから、私も好きです、と付言するのではなく、私も好きです、という言葉を最初に持ってきたのも、いいですよね、俺も好きです。あまりにもきゅんときたので、「鰐梨ってなんなんですか?」と質問するのを忘れてしまったほどだ。
数分後、トレイを手に古謝さんが部屋を訪問した。鰐梨とは、アボカドのことだった。「まずい青汁」は、青くてドロドロした見た目はまさに青汁で、ドロドロ具合がいかにも不味そうだ。
「では、食器はまたあとで回収に参りますので――」
「あ! ちょちょちょちょちょ!」
古謝さんが決まり文句を述べようとしたので、多少ウザい感じで待ったをかける。
「食器を回収するためだけに再訪するの、煩わしくないですか。少し待ってもらえるなら、三分で食べて返しますよ」
「えっ……。仕事ですし、暇を持て余しているし、別に煩わしくは……」
「いや、やります。俺に特技を披露する機会をください」
朝っぱらからなに馬鹿なことをやっているの、という思念の波のようなものがベッドから送られてきた。嫉妬だろうか。会話に参加したいなら、子供らしくストレートに意思を伝えればいいのに。
「俺、小学校のころは『早食いクソたわけ』という綽名だったんですよ。簡単に説明すると、本気を出した場合、給食を食べるのがアホみたいに早いんです」
「穏やかではない綽名ね。由来はあるの?」
一方の古謝さんは、にこやかに話に参加してくれる。性格の違いというべきか、大人と子供の違いというべきか。
「そういうタイトルの小説があるんですよ」
「へえ、小説。読書がお好きなの?」
「いや、元ネタを知っているだけです。芥川賞作家が書いた作品なんですけど――」
容量の少ない脳味噌に保存された貴重なうんちくを披露しようとして、はたと気がつく。古謝さんは多分、芥川賞作家には興味はないし、喋っている間に三分が経ちそうだ。
「じゃあ、行きます!」
有言実行、三分以内に全ての器を空にする。早食いにドン引きするのではなく、「おー」という歓声とともに拍手を送ってくれたので、ほっとした。「女が大好きサーモンと鰐梨のサンドウィッチ」はサーモンとアボカドとパンとマヨネーズの味がして、「不味い青汁」は青汁の味がした。
空のトレイとともに古謝さんが去る。一気に寂しくなったので、補うべくテレビを点ける。たまたま流れていた朝の情報番組を観ていると、天気予報が始まった。それによると、本日の東京は終日晴れる見込み、とのこと。
「一日中晴れだってさ。試合が中止にならなくてよかったな、アリス」
「ドーム球場なのだから、雨が降っていようが関係ないと思うけど」
あっ、そうか。
「いや、だって、観光に行くんですぜ? 試合前は古謝さんと三人と観光。外を出歩くんだから、雨が降っているよりも晴れていた方がいい。そうだろう?」
アリスはリアクションを示さない。無表情だが、完全に俺を馬鹿にしている。
「とにかく、もうチェックアウトしようぜ。出発でぇい!」
アリスを小脇に抱え、部屋を出て一階へ。
「有給、取れそうですか? 約束通り、お昼の十二時に来られますか?」
必要な手続きの全てが終わったあとで確認を取ると、
「ええ、大丈夫よ」
にこやかな微笑、快い即答。ほっと一安心。
「では約束の時間に、東京ドームの前で」
精いっぱい恰好をつけて去ろうとすると、呼び止められた。古謝さんがフロントカウンターから出てくる。その手には鋏が。
「当ホテルに宿泊いただいた記念に、是非とも蜜柑をお持ち帰りください。なんといっても無料ですので」
そういえば、収穫はチェックアウトのときに、とかなんとか言ったような記憶がある。断る理由はない。
アリスを含む三人でロビーの隅まで行く。手頃な高さと位置にある一個に狙いを定め、鋏を使うのは俺、床に墜落しないように蜜柑を手で支えるのは古謝さん。蜜柑一個を収穫するくらい一人でできるが、あえて共同作業、それがいい。堪らなくいい。枝から切り離す。
「はい、どうぞ」
蜜柑を差し出す手つきが甲斐甲斐しい。卒業証書のように恭しく受け取り、ジーンズのポケットに大事に押し込んだ。
「では約束の時間に、東京ドームの前で」
言ったあとで、恰好をつけた台詞を二度口にする間抜けさに気がついたが、笑顔で誤魔化して『リア』をあとにした。
朝十時の東京の空を占める雲の表面積は、三割強。最高ではないが中々の朝だ。最高ではないが中々の一日になる。そんな予感がした。
「朝飯、ルームサービスを頼もうと思うんだけど、アリスはなにがいい?」
「わたしはいらないわ」
「晩飯も食っていないのに、大丈夫か?」
「そういう体質だから」
無理しているのでも遠慮しているのでもなく、本当に食べなくても大丈夫らしい。全く、安上がりなやつだ。
「女が大好きサーモンと鰐梨のサンドウィッチ」という挑発的な名前の一品と、「まずい青汁」なるドリンクを注文することに決め、フロントに電話をかける。
「おはようございます」
聞こえてきたのは、ふわっと柔らかな古謝さんの声。注文を述べると、
「私も好きです。いいですよね、鰐梨」
好きです。その一言に胸がきゅんとなる。大好き、ではなく、好き、という言葉をチョイスしたのも、いいですよね、鰐梨、と先に言ってから、私も好きです、と付言するのではなく、私も好きです、という言葉を最初に持ってきたのも、いいですよね、俺も好きです。あまりにもきゅんときたので、「鰐梨ってなんなんですか?」と質問するのを忘れてしまったほどだ。
数分後、トレイを手に古謝さんが部屋を訪問した。鰐梨とは、アボカドのことだった。「まずい青汁」は、青くてドロドロした見た目はまさに青汁で、ドロドロ具合がいかにも不味そうだ。
「では、食器はまたあとで回収に参りますので――」
「あ! ちょちょちょちょちょ!」
古謝さんが決まり文句を述べようとしたので、多少ウザい感じで待ったをかける。
「食器を回収するためだけに再訪するの、煩わしくないですか。少し待ってもらえるなら、三分で食べて返しますよ」
「えっ……。仕事ですし、暇を持て余しているし、別に煩わしくは……」
「いや、やります。俺に特技を披露する機会をください」
朝っぱらからなに馬鹿なことをやっているの、という思念の波のようなものがベッドから送られてきた。嫉妬だろうか。会話に参加したいなら、子供らしくストレートに意思を伝えればいいのに。
「俺、小学校のころは『早食いクソたわけ』という綽名だったんですよ。簡単に説明すると、本気を出した場合、給食を食べるのがアホみたいに早いんです」
「穏やかではない綽名ね。由来はあるの?」
一方の古謝さんは、にこやかに話に参加してくれる。性格の違いというべきか、大人と子供の違いというべきか。
「そういうタイトルの小説があるんですよ」
「へえ、小説。読書がお好きなの?」
「いや、元ネタを知っているだけです。芥川賞作家が書いた作品なんですけど――」
容量の少ない脳味噌に保存された貴重なうんちくを披露しようとして、はたと気がつく。古謝さんは多分、芥川賞作家には興味はないし、喋っている間に三分が経ちそうだ。
「じゃあ、行きます!」
有言実行、三分以内に全ての器を空にする。早食いにドン引きするのではなく、「おー」という歓声とともに拍手を送ってくれたので、ほっとした。「女が大好きサーモンと鰐梨のサンドウィッチ」はサーモンとアボカドとパンとマヨネーズの味がして、「不味い青汁」は青汁の味がした。
空のトレイとともに古謝さんが去る。一気に寂しくなったので、補うべくテレビを点ける。たまたま流れていた朝の情報番組を観ていると、天気予報が始まった。それによると、本日の東京は終日晴れる見込み、とのこと。
「一日中晴れだってさ。試合が中止にならなくてよかったな、アリス」
「ドーム球場なのだから、雨が降っていようが関係ないと思うけど」
あっ、そうか。
「いや、だって、観光に行くんですぜ? 試合前は古謝さんと三人と観光。外を出歩くんだから、雨が降っているよりも晴れていた方がいい。そうだろう?」
アリスはリアクションを示さない。無表情だが、完全に俺を馬鹿にしている。
「とにかく、もうチェックアウトしようぜ。出発でぇい!」
アリスを小脇に抱え、部屋を出て一階へ。
「有給、取れそうですか? 約束通り、お昼の十二時に来られますか?」
必要な手続きの全てが終わったあとで確認を取ると、
「ええ、大丈夫よ」
にこやかな微笑、快い即答。ほっと一安心。
「では約束の時間に、東京ドームの前で」
精いっぱい恰好をつけて去ろうとすると、呼び止められた。古謝さんがフロントカウンターから出てくる。その手には鋏が。
「当ホテルに宿泊いただいた記念に、是非とも蜜柑をお持ち帰りください。なんといっても無料ですので」
そういえば、収穫はチェックアウトのときに、とかなんとか言ったような記憶がある。断る理由はない。
アリスを含む三人でロビーの隅まで行く。手頃な高さと位置にある一個に狙いを定め、鋏を使うのは俺、床に墜落しないように蜜柑を手で支えるのは古謝さん。蜜柑一個を収穫するくらい一人でできるが、あえて共同作業、それがいい。堪らなくいい。枝から切り離す。
「はい、どうぞ」
蜜柑を差し出す手つきが甲斐甲斐しい。卒業証書のように恭しく受け取り、ジーンズのポケットに大事に押し込んだ。
「では約束の時間に、東京ドームの前で」
言ったあとで、恰好をつけた台詞を二度口にする間抜けさに気がついたが、笑顔で誤魔化して『リア』をあとにした。
朝十時の東京の空を占める雲の表面積は、三割強。最高ではないが中々の朝だ。最高ではないが中々の一日になる。そんな予感がした。
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