アリス・イン・東京ドーム

阿波野治

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どうする?

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 内野陣の間で行われていたボール回しが終わり、白球がピッチャーのもとに帰ってきた。
 パンサーズのピッチャー――アレックス・カーヴァー選手は中腰になり、マウンドの傍らに突っ立っている俺と目の高さを同じにした。漆黒の肌と好対照な白い歯が剥き出しになる。なにやら早口で英語を喋り、

「ガンバロー、ニッポン」

 片言の日本語で言い添え、グラブで俺の肩を軽く叩いた。俺はいくらか無理をして口角を引き上げた。アレックス・カーヴァー選手は繰り返し首を縦に振りながら腰を伸ばし、帽子を取る。額の汗を拭う腕の動きに合わせてドレッドヘアが揺れる。
 アレックス・カーヴァー選手のピッチング練習が始まってからずっと、俺はマウンドの傍らに立っている。誰のものか分からないぶかぶかのヘルメットを被って立っている。恐らく、田丸選手との勝負に決着がつくまで立っていることになるだろう。

『一球ごとにマウンドに足を運んでサインを伝えるのはまどろっこしいから、ずっとカーヴァー選手の横で待機しておいてね』

 そう古謝さんが命じた以上は。

『あなたにはピッチャーとして、田丸選手と一打席勝負をしてもらいます。あなたが田丸選手を打ち取ったらあなたの勝ち。田丸選手がヒットを打ったらあなたの負け――』
「いやいやいや! 野球で勝負って、無理だから! ど素人がプロに勝てるはずないですって!」

 古謝さんの一方的な宣告に対して、当然、俺は抗議した。声を大にして抗議した。それを受けて古謝さんが示した修正案は、

「じゃあ、投げるのはパンサーズの選手にやってもらって、サインを出すのはあなたがやる、ということにしましょうか。お父さんと一緒によく野球を観ていたんでしょう? だったら問題ないわよね」

 なるほど、それなら素人でもプロに勝つチャンスがあるかもしれない。
 一瞬そう思ったが、冷静に考えると、対戦するバッターはプロだ。打つのもプロなら、配球を読むのもプロ。彼らの洞察力にかかれば、素人の考えることなど手に取るように分かるに違いない。配球は読み切ったものの打ち損じる、という可能性もあるかもしれないが、ピッチャーだって投げ損じるかもしれないのだ。配球を考えるのが俺である限り、勝負は圧倒的にこちらが不利だ。
 だからといって、「別の勝負にしてださいよ」と古謝さんに懇願するのは躊躇いを覚える。
 古謝さんはこれでも、最大限譲歩しているのかもしれない。それを突っぱねれば、じゃあ潔く罰を受けてちょうだい、ということになりかねない。
 そんなのはまっぴらごめんだ。たとえ勝てる確率が限りなく零に近くとも、全くの零よりはいいに決まっている。
 定められたルールを遵守して戦い、勝つ。その道しかないのだ。

 心身の準備が完了したのだろう、アレックス・カーヴァー選手はキャッチャーに向かって軽く右手を上げた。キャッチャーマスク越しの視線が一塁ベンチに注がれる。呼応するかのように、田丸選手が現れた。バットは持っていない。真っ直ぐにマウンドに向かってくる。
 一般人と比べると大きな体の田丸選手と、それよりも一回り大きな体のアレックス・カーヴァー選手は、マウンドの前方で相対し、がっちりと握手を交わした。手が離れると、田丸選手は俺の方を向き、

「君の無事を願う気持ちは強く持っているが、俺はプロ野球選手だ。わざと三振するような真似はしたくないし、できない。悔いのない勝負をしよう」

 静かだが熱のこもった口調でそう告げ、小走りに走り去る。後ろ姿がベンチの奥の闇に吸い込まれたのを見て、脚が震えた。
 田丸選手はすぐにグラウンドに戻ってきた。今度はバットを手にしている。ネクストバッターズサークルに入り、素振りを繰り返す。眼光、スイング、どちらも鋭い。
 一塁ベンチ脇には、警備員に運ばせたのだろうか、白革のソファがいつの間にか置かれ、古謝さんが座っている。踏ん反り返っているわけではないが、どことなく尊大な印象を受ける。

『お手並み拝見といきましょう。ま、どうせあなたは負けるでしょうけどね』

 そう顔に書いてある。
 いきなり太ももを撫でられた。アレックス・カーヴァー選手だ。俺に向かってウィンクをしてみせ、ゆっくりとマウンドに上がる。
 膝の屈伸運動を行い、最後にもう一度バットを振り、田丸選手は右バッターボックスに入った。
 静寂に包まれた場内に、勝負の開始を告げる主審のコールが凛然と響いた。

 田丸選手は両足を肩幅に開いて立ち、上体を軽く反らし、バットを高々と構えた。静謐さと雄々しさが同居したバッティングフォームだ。
 アレックス・カーヴァー選手がこちらを見た。促すような、欲するような眼差し。指示を要求しているのだ。どのコースにどの球種を投げるのか、その指示を。
 俺はなにも言えない。
 俺は英語を、アレックス・カーヴァー選手は日本語を、それぞれ満足に喋ることができない。にもかかわらず、通訳を介さずにコミュニケーションを取らなければならない。古謝さんがそう決めた以上、そのルールに従わなければならない。
 しかしながら、俺が沈黙する理由はそれではなかった。どのコースにどの球種を投げるかを伝えるくらい、片言の英語に身振り手振りを交えればなんとでもなる。言葉の壁。そんなものは障害のうちには入らない。
 俺は怖いのだ。

 試合を観た限り、アレックス・カーヴァー選手はストレートに最も自信を持っているようだ。得意な球種を中心に攻めるのがセオリーだろうが、アレックス・カーヴァー選手がストレートを得意とするピッチャーだということは、田丸選手は当然知っているはず。その球種を狙ってきたとしてもなんらおかしくはない。いくら速いといっても、狙い打ちされたらひとたまりもない。裏をかいて変化球でいくか? 頻度こそ低かったが、アレックス・カーヴァー選手は遅いカーブをも投げていた。速いストレートを待っているところに、人を食ったようなスローカーブが投じられたら、バッターは手が出ないだろう。だが、裏の裏をかいて変化球を待っていたとしたら、一巻の終わりだ。裏をかく作戦が奏功したと仮定して、次の一球はどうする? 変化球を続ける? それともストレート? アレックス・カーヴァー選手の一番の武器である速球は初球には投じられなかった。その結果を受けて、田丸選手はどう考える? 変化球待ちに切り替える? それともストレートを待ち続ける? そもそも田丸選手は、最初から方針を決めて打席に立つのだろうか。一球でも投げミスをすればヒットを打たれる可能性があるピッチャーとは異なり、バッターはストライクを二球見逃してもアウトにはならない。ひとまず初球は見逃す。見逃した一球の球種とコースを判断材料に配球を推測し、狙い打つ。そのような方針を立てているのではないか。仮にそうだとしても、ストライクゾーンのど真ん中にボールが来れば、田丸選手は躊躇なくスイングしてくるに違いない。どうせ初球は様子を見るだろうと高を括って簡単にストライクを取りにいく。それだけは絶対にいけない。その簡単にストライクを取りにいっては絶対にいけない初球に、アレックス・カーヴァー投手はなにを投げればいいのだろう? 得意とするストレートで攻めるべきか、裏をかいて変化球を選択するべきか――。

 考えても、考えても、これだと確信を持てる答えが見つからない。確信を持てないから、口にするのが怖い。だからなにも言えない。
 痺れを切らしたように田丸選手がバッターボックスを外した。途端にどっと汗が噴き出した。

 アレックス・カーヴァー選手が、肩の力を抜け、というような仕草をした。首筋の汗を手の甲で拭い、微笑んでそれに応えたが、ぎこちない微笑みになったのが鏡を見なくても分かった。
 ピッチャーが投げない限り試合は進行しない。野球はそういうスポーツだ。だからといって、いつまでも時間稼ぎをしているわけにもいかない。時間を稼いでも救いの手が差し伸べられる見込みはないのだから、稼ぐ意味がない。
 絶対なんてものはそうそうあるものではない。遅かれ早かれ腹を括るしかないのだが、どうしても踏ん切りがつかない。
 神よ。あんたの存在なんて信じちゃいないが、もしも天にましますなら、どうか教えてくれ。このアホくさい勝負に必勝法があるとすれば、それはなんなのですか?
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