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決着
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「やりなさい!」
突然の目の覚めるような大声に、俺は弾かれたように顔を上げた。
だが、誰の声なのか。
アレックス・カーヴァー選手――のはずがない。田丸選手――のそれとも異なるようだ。聞こえ方もなにかおかしかった。まるで脳に直接届けられたかのような……。
「無茶苦茶してやりなさい!」
無茶苦茶。その言葉が持つすこぶる滑稽な響きに、風船に開いた小穴から空気が洩れるように肩の力が抜けていく。それに反比例して、バスタブに湯が溜まるように熱いものが胸の内側を満たしていく。
こんな単純なことに気がつかなかったなんて!
時間の流れを遅くさせる能力を持つにもかかわらず、球場に足を踏み入れ、試合時間を長引かせたので、罰を受けなければならない。罰を免れるためには、プロ野球選手と勝負し、アウトに打ち取らなければならない。
こんな、なにからなにまでアホらしい勝負に真剣な態度で臨むなんて、それこそアホらしい。声の言う通り、無茶苦茶やってやればいいんだ。怖れる必要なんてない。負けたところで命を取られるわけじゃないんだから。
口元が緩んだのを俺は自覚する。
アレックス・カーヴァー選手を手招く。きょとんとした顔を見せながら、大きな体がマウンドから降りてくる。その場に屈む。アレックス・カーヴァー選手も屈む。田丸選手の視線がアレックス・カーヴァー選手の巨体に遮られていることを確認した上で、土に指で正方形を描く。縦に二本、横にも二本線を引き、九個の小さな正方形に分割する。
「ファストボール」
九つのうちの真ん中の正方形を指でつつく。何度もつつきながら言う。
「オール、ファストボール。オール、全球、ここにファストボール。……オーケイ?」
数秒の間があった。アレックス・カーヴァー選手は白い歯を剥き出しにし、俺に向かって右手の親指を突き立てた。一拍の間のあと、俺は彼と同じ表情と仕草をしてみせた。
アレックス・カーヴァー選手は腰を上げ、マウンドに上がった。
田丸選手がバッターボックスに入る。
両者、ほぼ同時に戦闘体勢に入る。
二人の肉体は、何秒の間、完全なる静止状態にあっただろう。
いきなりアレックス・カーヴァー選手が振りかぶった。ドームの天井に向けて突き出された筋肉質な二本の腕。一瞬虚空に停止し、そして動き出す。流れるような、それでいて力強いピッチングフォーム。その大きな右手に鷲掴みされているのは、白球ではなく、オレンジ色の球体――蜜柑。
アレックス・カーヴァー選手の右手から蜜柑が放たれた。キャッチャーミットを目指して一直線に突き進む。田丸選手の口角が吊り上がったのは、スイングに備えて歯を食い縛ったからか、狙っていた球が来たからか。
フルスイング。
バットと蜜柑が衝突する。球体が歪み、弾き返された。弾丸ライナーが俺の顔を目がけて飛んでくる。かわす暇などない。目を瞑った。
なにかが弾けた。
……痛くない。蜜柑が顔面に直撃したはずなのに、全く痛みを感じない。
瞼を開くと、目の前には黒い手があった。アレックス・カーヴァー選手の右手だ。オレンジがかった半透明の汁にまみれている。
柑橘類の匂いが頭上で香った。見上げると、無数の蜜柑の果肉が虚空に点を描いていた。一斉に落ちてくる。
一片の果肉が俺の右肩に降り立った瞬間、情景が切り替わった。
狭く、殺風景な一室。板壁の至るところに補修された形跡がある。天井から吊り下げられた電球の光は弱々しい。片隅にテレビが置かれている。小型の、古びたそれを前に、一人の少年が胡座をかいている。黒人だ。食い入るように画面を見つめている。放送されているのは野球の試合だ。
マウンドには長身の黒人ピッチャーが立っている。投球モーションに入った。少年は上体を乗り出した。ボールが投じられる。唸るような剛速球に、巨漢の白人バッターのバットは空を切った。三振。スリーアウトチェンジ。大歓声が球場を包む。黒人ピッチャーは悠然たる足取りベンチに戻る。吹き抜けた風にドレッドヘアが揺らめく。
『すげぇ!』
少年の心の声が聞こえた。少年は瞳を爛々と輝かせ、ベンチでチームメイトとタッチを交わす黒人ピッチャーを見ている。
『いつか絶対、僕もメジャーのマウンドに立つんだ! MLBで一番のピッチャーになるんだ!』
再び情景が切り替わり、事務室風の一室。黒革のソファに腰を下ろしているのは、銀縁の眼鏡をかけた老年の男性。膝の上で両手を組み合わせ、しかつめらしい顔をしている。その視線の先、硝子製のローテーブルの向こう側に田丸選手が立っている。ダークグレイのスーツを着、現在よりも少し顔が若い。直立不動で老年の男性と相対している。表情はいくらか強張っている。
『君は入団以来、期待を裏切り続けている』
老年の男性の低い声が部屋に冷たく響く。
『若手も伸びてきている。代打でも結果が出ないとなると、君の居場所は我が軍にはない。来年が勝負の年だと思って頑張ってくれたまえ』
田丸選手は深々と一礼して部屋を退出する。俯きがちに廊下を歩く。その足取りは重たい。
『来シーズンも結果が出なければクビ、か』
唇が小刻みに蠢いたが、声が発せられたわけではない。耳に届いたのは、田丸選手の心の声だ。
『こんなところで終わせてたまるかよ、俺のプロ野球人生。子供のころからの夢だったんだぞ。終わらせてたまるかよ、こんな無様な形で』
また情景が替わった。こぢんまりとした、落ち着いた雰囲気の居酒屋の店内。奥まったテーブル席に三人の女性が座っている。テーブルの上には何皿もの料理が並び、酒が入ったグラスが三つ置かれている。全員若い女性で、その中の一人は古謝さんだ。容姿は現在と全く変わっていない。
三人の中の一人が、先週末に恋人と一緒にJリーグの試合を観戦したらしく、そのときの模様を子細に語っている。古謝さんは黙って話を聞いている。頻繁に相槌を打ち、その合間にフライドポテトを指でつまんで口に運ぶ。
『サッカー、スタジアムで観戦したのは初めてだったんだけど、一回あの興奮を味わったら、野球なんて二度と観られないね。試合時間が長いから、絶対に途中で飽きちゃうよ』
恋人とサッカーを観に行った一人は話をそう締め括った。
古謝さん以外の二人は口々に、野球に対する否定的な意見を並べ始めた。口数と声の大きさは、いっときよりもいくらか増している。
古謝さんはいつしか相槌を打つのをやめている。顔は引きつっているように見える。二人は会話に夢中で、古謝さんには全く注意を払わない。
『サッカーが面白かったのなら、面白かったと言えば済むことじゃない。野球を悪し様に言う必要がどこにあるの』
古謝さんの心の声は震えを帯びている。怒りではなく悲しみによって。
『大好きな野球を馬鹿にされないために、私はなにをするべきだろう。私になにができるだろう』
古謝さんの顔が一瞬にして消え失せ、俺は東京ドームの天井を仰いでいた。
許そう、と思った。散々惑わされ、煩わされ、振り回されたが、全て水に流そう。俺を惑わせ、煩わせ、振り回した一連の出来事、それに係わった全ての人たちの、ありとあらゆる想いに敬意を表して。
上空から蜜柑が降ってくる。音もなく、揺れもせず、ゆっくりと。果肉を失い、皮だけの姿となったオレンジ色の果実。それは静かに、穏やかに、慎ましやかに、アレックス・カーヴァー選手の右掌に降り立った。
「ほらね。わたしの言う通りにして正解だったでしょう?」
またしても脳に直接声が響いた。バックスクリーンを振り向く。銀色の十字架に磔にされたピンク色の塊が、俺に向かって右手の親指を突き立てた。
突然の目の覚めるような大声に、俺は弾かれたように顔を上げた。
だが、誰の声なのか。
アレックス・カーヴァー選手――のはずがない。田丸選手――のそれとも異なるようだ。聞こえ方もなにかおかしかった。まるで脳に直接届けられたかのような……。
「無茶苦茶してやりなさい!」
無茶苦茶。その言葉が持つすこぶる滑稽な響きに、風船に開いた小穴から空気が洩れるように肩の力が抜けていく。それに反比例して、バスタブに湯が溜まるように熱いものが胸の内側を満たしていく。
こんな単純なことに気がつかなかったなんて!
時間の流れを遅くさせる能力を持つにもかかわらず、球場に足を踏み入れ、試合時間を長引かせたので、罰を受けなければならない。罰を免れるためには、プロ野球選手と勝負し、アウトに打ち取らなければならない。
こんな、なにからなにまでアホらしい勝負に真剣な態度で臨むなんて、それこそアホらしい。声の言う通り、無茶苦茶やってやればいいんだ。怖れる必要なんてない。負けたところで命を取られるわけじゃないんだから。
口元が緩んだのを俺は自覚する。
アレックス・カーヴァー選手を手招く。きょとんとした顔を見せながら、大きな体がマウンドから降りてくる。その場に屈む。アレックス・カーヴァー選手も屈む。田丸選手の視線がアレックス・カーヴァー選手の巨体に遮られていることを確認した上で、土に指で正方形を描く。縦に二本、横にも二本線を引き、九個の小さな正方形に分割する。
「ファストボール」
九つのうちの真ん中の正方形を指でつつく。何度もつつきながら言う。
「オール、ファストボール。オール、全球、ここにファストボール。……オーケイ?」
数秒の間があった。アレックス・カーヴァー選手は白い歯を剥き出しにし、俺に向かって右手の親指を突き立てた。一拍の間のあと、俺は彼と同じ表情と仕草をしてみせた。
アレックス・カーヴァー選手は腰を上げ、マウンドに上がった。
田丸選手がバッターボックスに入る。
両者、ほぼ同時に戦闘体勢に入る。
二人の肉体は、何秒の間、完全なる静止状態にあっただろう。
いきなりアレックス・カーヴァー選手が振りかぶった。ドームの天井に向けて突き出された筋肉質な二本の腕。一瞬虚空に停止し、そして動き出す。流れるような、それでいて力強いピッチングフォーム。その大きな右手に鷲掴みされているのは、白球ではなく、オレンジ色の球体――蜜柑。
アレックス・カーヴァー選手の右手から蜜柑が放たれた。キャッチャーミットを目指して一直線に突き進む。田丸選手の口角が吊り上がったのは、スイングに備えて歯を食い縛ったからか、狙っていた球が来たからか。
フルスイング。
バットと蜜柑が衝突する。球体が歪み、弾き返された。弾丸ライナーが俺の顔を目がけて飛んでくる。かわす暇などない。目を瞑った。
なにかが弾けた。
……痛くない。蜜柑が顔面に直撃したはずなのに、全く痛みを感じない。
瞼を開くと、目の前には黒い手があった。アレックス・カーヴァー選手の右手だ。オレンジがかった半透明の汁にまみれている。
柑橘類の匂いが頭上で香った。見上げると、無数の蜜柑の果肉が虚空に点を描いていた。一斉に落ちてくる。
一片の果肉が俺の右肩に降り立った瞬間、情景が切り替わった。
狭く、殺風景な一室。板壁の至るところに補修された形跡がある。天井から吊り下げられた電球の光は弱々しい。片隅にテレビが置かれている。小型の、古びたそれを前に、一人の少年が胡座をかいている。黒人だ。食い入るように画面を見つめている。放送されているのは野球の試合だ。
マウンドには長身の黒人ピッチャーが立っている。投球モーションに入った。少年は上体を乗り出した。ボールが投じられる。唸るような剛速球に、巨漢の白人バッターのバットは空を切った。三振。スリーアウトチェンジ。大歓声が球場を包む。黒人ピッチャーは悠然たる足取りベンチに戻る。吹き抜けた風にドレッドヘアが揺らめく。
『すげぇ!』
少年の心の声が聞こえた。少年は瞳を爛々と輝かせ、ベンチでチームメイトとタッチを交わす黒人ピッチャーを見ている。
『いつか絶対、僕もメジャーのマウンドに立つんだ! MLBで一番のピッチャーになるんだ!』
再び情景が切り替わり、事務室風の一室。黒革のソファに腰を下ろしているのは、銀縁の眼鏡をかけた老年の男性。膝の上で両手を組み合わせ、しかつめらしい顔をしている。その視線の先、硝子製のローテーブルの向こう側に田丸選手が立っている。ダークグレイのスーツを着、現在よりも少し顔が若い。直立不動で老年の男性と相対している。表情はいくらか強張っている。
『君は入団以来、期待を裏切り続けている』
老年の男性の低い声が部屋に冷たく響く。
『若手も伸びてきている。代打でも結果が出ないとなると、君の居場所は我が軍にはない。来年が勝負の年だと思って頑張ってくれたまえ』
田丸選手は深々と一礼して部屋を退出する。俯きがちに廊下を歩く。その足取りは重たい。
『来シーズンも結果が出なければクビ、か』
唇が小刻みに蠢いたが、声が発せられたわけではない。耳に届いたのは、田丸選手の心の声だ。
『こんなところで終わせてたまるかよ、俺のプロ野球人生。子供のころからの夢だったんだぞ。終わらせてたまるかよ、こんな無様な形で』
また情景が替わった。こぢんまりとした、落ち着いた雰囲気の居酒屋の店内。奥まったテーブル席に三人の女性が座っている。テーブルの上には何皿もの料理が並び、酒が入ったグラスが三つ置かれている。全員若い女性で、その中の一人は古謝さんだ。容姿は現在と全く変わっていない。
三人の中の一人が、先週末に恋人と一緒にJリーグの試合を観戦したらしく、そのときの模様を子細に語っている。古謝さんは黙って話を聞いている。頻繁に相槌を打ち、その合間にフライドポテトを指でつまんで口に運ぶ。
『サッカー、スタジアムで観戦したのは初めてだったんだけど、一回あの興奮を味わったら、野球なんて二度と観られないね。試合時間が長いから、絶対に途中で飽きちゃうよ』
恋人とサッカーを観に行った一人は話をそう締め括った。
古謝さん以外の二人は口々に、野球に対する否定的な意見を並べ始めた。口数と声の大きさは、いっときよりもいくらか増している。
古謝さんはいつしか相槌を打つのをやめている。顔は引きつっているように見える。二人は会話に夢中で、古謝さんには全く注意を払わない。
『サッカーが面白かったのなら、面白かったと言えば済むことじゃない。野球を悪し様に言う必要がどこにあるの』
古謝さんの心の声は震えを帯びている。怒りではなく悲しみによって。
『大好きな野球を馬鹿にされないために、私はなにをするべきだろう。私になにができるだろう』
古謝さんの顔が一瞬にして消え失せ、俺は東京ドームの天井を仰いでいた。
許そう、と思った。散々惑わされ、煩わされ、振り回されたが、全て水に流そう。俺を惑わせ、煩わせ、振り回した一連の出来事、それに係わった全ての人たちの、ありとあらゆる想いに敬意を表して。
上空から蜜柑が降ってくる。音もなく、揺れもせず、ゆっくりと。果肉を失い、皮だけの姿となったオレンジ色の果実。それは静かに、穏やかに、慎ましやかに、アレックス・カーヴァー選手の右掌に降り立った。
「ほらね。わたしの言う通りにして正解だったでしょう?」
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