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ゆっくり、のんびり
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「あの日はエイプリルフールだったから、もう一か月が経つのね」
壁にかかったカレンダーを見て古謝さんが呟いた。カレンダーの上部には青々とした芝生の上で二匹の子猫がボールにじゃれている写真が、下部には日付と曜日が、それぞれ印刷されている。
「早いですねぇ」
カレンダーの子猫を眺めながら俺は答える。庭で雀がちゅんちゅんと鳴いている。小さく開いた窓から流れ込んでくるそよ風がカーテンを揺らす。
俺の自宅のリビング、その中央に据えられた硝子テーブルを挟んで、俺と古謝さんは座っている。時計の短針はそろそろ十二の数字を指そうとしている。
東京ドームの外で少しばかり立ち話をしたのが、古謝さんと過ごす最後の時間となるはずだった。しかし古謝さんは、ゴールデンウィークを利用して俺の家に遊びに来た。
「なんで俺の家が分かったんですか?」
疑問をぶつけたところ、
「あなたが宿泊者名簿に記入した住所を見たの」
との回答。法律のことはよく分からないが、個人情報関係のそれに抵触する行為だと思われる。だから俺は古謝さんにこう言ってやったのさ。
「犯罪の被害者になるのが、こんなに嬉しいことだとは思いませんでした」
家に上がってもらい、冷たい烏龍茶を出し、対座してみたものの、なにを話せばいいのか。困っていると、古謝さんが口火を切った。
四月一日付で、日本の野球場から田舎者を排除する会の東京ドーム支部長を辞任したこと。「日本の野球場から田舎者を排除する会」には依然として籍を置いているが、会の活動には一切関わっていないこと。後任の東京ドーム支部長には、穏健派のリーダーに当たる人物が就任したこと。新支部長の方針により、支部は当面、活動を自粛することになったこと。
話してくれたのは、以上の内容だった。
「日本の野球場から田舎者を排除する会」に精通しているわけではないので、不明瞭な点もいくつかあったが、古謝さんにとっても会にとっても、好ましい方向に向かっているらしいと分かったので、ひとまず胸を撫で下ろした。
古謝さんは天然なように見えて、しっかりしているとろころはしっかりしている。だから、きっと大丈夫だ。
「テレビでも点けますか」
話が一段落し、沈黙が降りたので、文明の利器の助けを借りることにする。電源を入れると、映し出された映像、聞こえてきた音声は、
「ぎゅわぁー、てゅえぇー、ぎゅわぁー、てゅえぇー、ふゎあぁー、るぅわぁー、ぎゅわぁー、てゅえぇー……」
異様にゆっくりと般若心経を唱える尼さんだった。
まずい!
……と思ったが、よく見ると全然まずくない。前回とは異なりというべきか、新幹線の窓越しに見たのと同様にというべきか、ちゃんと法衣を身にまとっている。中二のとき、片想いをしていた女の子を誘って、世間で話題の恋愛映画を映画館に観に行ったら、冒頭からいきなりベッドシーンで、酷く気まずい思いをした経験があるが、そんな悪夢を再び見ずに済んだ幸運を俺は神に感謝した。
「尼さんが物凄くゆっくり読経してますねぇ」
と俺。
「尼さんが物凄くゆっくり読経してるわね」
と古謝さん。
「前もやってましたよ、尼さんが物凄くゆっくり経を読んでいる模様を流すだけの番組。観ながら昼飯を食った記憶があります。……昼飯といえば」
カレンダーの横の時計を一瞥し、
「もう十二時ですね。お昼、一緒に食べませんか」
「ご一緒して構わないの?」
「ええ、勿論。なに食べます? ご希望があれば遠慮なく」
「あなたになにか作ってもらう、というのは厚かましいお願いかしら」
「料理ですか。料理は無理ですねえ、残念ながら。作れることは作れるんですけど、他人様に披露できる腕前じゃないんで」
「わがまま言って申し訳ないんだけど、私、お家でゆっくり、のんびり過ごしたい気分なの。なにかいい案はないかしら」
「お家でゆっくり、のんびり、ですか。宅配ピザを頼む、くらいしか思いつかないですねぇ。カップラーメンならありますけど、それは流石に……」
「カップラーメンの買い置きがあるの? じゃあ、それにしましょうよ」
「えっ、いいんですか? 普通のカップラーメンですよ?」
「ええ、いいわよ。普通のカップラーメンで」
「……本当にいいんですか?」
「本当にいいの」
「そうですか。古謝さんがそう言うなら、昼飯はそれにしましょう」
ちょうどよかったです。カップラーメン、有り余っていたんですよ。余りまくっていたんですよ。
口にしそうになった言葉を飲み込み、ポットで湯を沸かす。箸を用意する。烏龍茶を注ぎ足す。
戸棚の戸を開けると、カップラーメンの容器が十個積み重なってできたタワーが二基、横並びにそびえている。右側のタワーを横に退かす。その奥にアリスの姿はない。
とはいえ、寂しがる必要はない。なにせ、あいつはテレパシーの使い手で、俺とあいつの相性はばっちりだ。用事があるなら、きっとあいつの方から連絡を寄越してくる。
『トシオは今どこにいるの? また遊びに行きたくなったんだけど、わたしは全身が弛緩していて、自力では移動もままならないから、迎えに来てほしいんだけど』
やつはそう言ってくるだろうから、俺はこう答えるのさ。
「いや、俺、トシオじゃないから。小林大気だから」
テレビは相も変わらずスローモーションに読経する尼さんを映している。湯を注いでから二分ほど経っただろうか。カップラーメンの蓋を開けようとすると、
「まだ二分よ」
と忠告を受けた。俺は微苦笑し、
「麺、硬めが好きなんですよ」
「私も硬めが好き。でも――」
古謝さんは俺の手に自分の手を重ね、ふんわりと微笑む。
「今日くらいはゆっくり、のんびりしましょうよ。……ね?」
二つの蓋は一分後に開けられた。
ゆっくり、のんびり、二人は麺をすすった。
壁にかかったカレンダーを見て古謝さんが呟いた。カレンダーの上部には青々とした芝生の上で二匹の子猫がボールにじゃれている写真が、下部には日付と曜日が、それぞれ印刷されている。
「早いですねぇ」
カレンダーの子猫を眺めながら俺は答える。庭で雀がちゅんちゅんと鳴いている。小さく開いた窓から流れ込んでくるそよ風がカーテンを揺らす。
俺の自宅のリビング、その中央に据えられた硝子テーブルを挟んで、俺と古謝さんは座っている。時計の短針はそろそろ十二の数字を指そうとしている。
東京ドームの外で少しばかり立ち話をしたのが、古謝さんと過ごす最後の時間となるはずだった。しかし古謝さんは、ゴールデンウィークを利用して俺の家に遊びに来た。
「なんで俺の家が分かったんですか?」
疑問をぶつけたところ、
「あなたが宿泊者名簿に記入した住所を見たの」
との回答。法律のことはよく分からないが、個人情報関係のそれに抵触する行為だと思われる。だから俺は古謝さんにこう言ってやったのさ。
「犯罪の被害者になるのが、こんなに嬉しいことだとは思いませんでした」
家に上がってもらい、冷たい烏龍茶を出し、対座してみたものの、なにを話せばいいのか。困っていると、古謝さんが口火を切った。
四月一日付で、日本の野球場から田舎者を排除する会の東京ドーム支部長を辞任したこと。「日本の野球場から田舎者を排除する会」には依然として籍を置いているが、会の活動には一切関わっていないこと。後任の東京ドーム支部長には、穏健派のリーダーに当たる人物が就任したこと。新支部長の方針により、支部は当面、活動を自粛することになったこと。
話してくれたのは、以上の内容だった。
「日本の野球場から田舎者を排除する会」に精通しているわけではないので、不明瞭な点もいくつかあったが、古謝さんにとっても会にとっても、好ましい方向に向かっているらしいと分かったので、ひとまず胸を撫で下ろした。
古謝さんは天然なように見えて、しっかりしているとろころはしっかりしている。だから、きっと大丈夫だ。
「テレビでも点けますか」
話が一段落し、沈黙が降りたので、文明の利器の助けを借りることにする。電源を入れると、映し出された映像、聞こえてきた音声は、
「ぎゅわぁー、てゅえぇー、ぎゅわぁー、てゅえぇー、ふゎあぁー、るぅわぁー、ぎゅわぁー、てゅえぇー……」
異様にゆっくりと般若心経を唱える尼さんだった。
まずい!
……と思ったが、よく見ると全然まずくない。前回とは異なりというべきか、新幹線の窓越しに見たのと同様にというべきか、ちゃんと法衣を身にまとっている。中二のとき、片想いをしていた女の子を誘って、世間で話題の恋愛映画を映画館に観に行ったら、冒頭からいきなりベッドシーンで、酷く気まずい思いをした経験があるが、そんな悪夢を再び見ずに済んだ幸運を俺は神に感謝した。
「尼さんが物凄くゆっくり読経してますねぇ」
と俺。
「尼さんが物凄くゆっくり読経してるわね」
と古謝さん。
「前もやってましたよ、尼さんが物凄くゆっくり経を読んでいる模様を流すだけの番組。観ながら昼飯を食った記憶があります。……昼飯といえば」
カレンダーの横の時計を一瞥し、
「もう十二時ですね。お昼、一緒に食べませんか」
「ご一緒して構わないの?」
「ええ、勿論。なに食べます? ご希望があれば遠慮なく」
「あなたになにか作ってもらう、というのは厚かましいお願いかしら」
「料理ですか。料理は無理ですねえ、残念ながら。作れることは作れるんですけど、他人様に披露できる腕前じゃないんで」
「わがまま言って申し訳ないんだけど、私、お家でゆっくり、のんびり過ごしたい気分なの。なにかいい案はないかしら」
「お家でゆっくり、のんびり、ですか。宅配ピザを頼む、くらいしか思いつかないですねぇ。カップラーメンならありますけど、それは流石に……」
「カップラーメンの買い置きがあるの? じゃあ、それにしましょうよ」
「えっ、いいんですか? 普通のカップラーメンですよ?」
「ええ、いいわよ。普通のカップラーメンで」
「……本当にいいんですか?」
「本当にいいの」
「そうですか。古謝さんがそう言うなら、昼飯はそれにしましょう」
ちょうどよかったです。カップラーメン、有り余っていたんですよ。余りまくっていたんですよ。
口にしそうになった言葉を飲み込み、ポットで湯を沸かす。箸を用意する。烏龍茶を注ぎ足す。
戸棚の戸を開けると、カップラーメンの容器が十個積み重なってできたタワーが二基、横並びにそびえている。右側のタワーを横に退かす。その奥にアリスの姿はない。
とはいえ、寂しがる必要はない。なにせ、あいつはテレパシーの使い手で、俺とあいつの相性はばっちりだ。用事があるなら、きっとあいつの方から連絡を寄越してくる。
『トシオは今どこにいるの? また遊びに行きたくなったんだけど、わたしは全身が弛緩していて、自力では移動もままならないから、迎えに来てほしいんだけど』
やつはそう言ってくるだろうから、俺はこう答えるのさ。
「いや、俺、トシオじゃないから。小林大気だから」
テレビは相も変わらずスローモーションに読経する尼さんを映している。湯を注いでから二分ほど経っただろうか。カップラーメンの蓋を開けようとすると、
「まだ二分よ」
と忠告を受けた。俺は微苦笑し、
「麺、硬めが好きなんですよ」
「私も硬めが好き。でも――」
古謝さんは俺の手に自分の手を重ね、ふんわりと微笑む。
「今日くらいはゆっくり、のんびりしましょうよ。……ね?」
二つの蓋は一分後に開けられた。
ゆっくり、のんびり、二人は麺をすすった。
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