僕は君を殺さない

阿波野治

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 両手で地面を押して上体を起こす。そこから立ち上がるまでには、十秒を超える休息を挟まなければならなかった。左脇腹の痛みにふらつき、転びそうになったが、なんとか持ち堪えた。走ればより強く邪魔をしてくるのだろうと思うと、絶望が重苦しくのしかかってくる。しかし、屈するわけにはいかない。
 九条さんの父親は、早くも細道のほぼ半分を消化している。

 追いかけようと駆け出した直後、石につまずいた。足元が悪いという情報が頭の中から消えていたので、正真正銘の不意打ちだ。顔から地面に倒れそうになったが、反射的に両手をついてその事態を回避する。蹴りを食らった直後のような呼吸。

 負けてたまるか。
 両手を力強く握り締めて立ち上がる。息を整えながら両手に目を落とす。右手には鶏卵よりも一回り大きな歪な形の石が、左手には数個の小石と土が、それぞれ握られている。

 石。これを武器にして立ち向かうしかない。
 敵は僕をいとも容易く退けた。赤子の手を捻るように、いとも容易く。石ころ程度の武器を得たところで、実力差は埋まるのか? せめてリーチの長い得物でも得ないことには、一矢を報いることすら難しいのでは?

 敵はそろそろ細道を上りきろうとしている。
 石をジーンズのポケットに突っ込み、僕は駆け出した。

 最初の足で大地を踏み締めた瞬間、左脇腹が刺されたように痛んだ。奥歯を噛み締めてそれをやり過ごす。無理矢理走る。痛みは大地を踏み締めるごとに律義に襲いくる。いい加減、大人しくしてくれてもいいだろうに。舌打ちをしたくなったが、痛みを抑えつける、駆ける、二つの行為に専念する。痛んでいるのは僕とは別の体の一部分だ。僕の体が悲鳴を上げているわけではない。我ながら意味不明な理屈だが、多少なりとも気を紛らわせるだけの効果はあった。ささやかすぎて泣きたくなるが、それでも足は動き続けている。ある種の惰性が僕の体を運んでいるのだ。その現実が勇気をもたらしてくれる。限界を超えて運動を行うエネルギーになる。

 敵は細道を上りきった。車までの距離はそう長くはない。しかし、絶望はしていない。まだ間に合う。手遅れになる前に追いつける。さあ、走れ!

 上り坂を上るのはきついだろう、という覚悟はあった。しかし、これは駄目かもしれない、と思ったのは一歩目だけで、二歩目からは存外スムーズに進めた。河原の凹凸に満ちた地面と比べれば、さほど困難な道ではないのだと気がつく。痛みも多少なりとも減じた。加速する。たちまち痛みがぶり返したが、無視して走り続ける。僕は九条さんの自宅の場所を知らない。走り去られれば絶望だ。その前に、なんとしてでも追いつかなければ。

 道を上りきった。車は、依然として元の場所に停まっている。エンジンは作動していない。
 その車の前に、九条さんを肩に担いだ九条さんの父親がいる。たった今、ゆっくりと地面に下ろした。叫ぼうとしたが、声が出ない。息が切れているのか、心が慌てているのか。舌打ちし、二人がいる方に向かって走り出す。直後、なにかを踏みつけた。ある程度の硬度を持つ小さな物体で、罅が入ったような音がした。足を退かして地面に目を落とす。そこにあったのは、キャンディの個包装。

 天啓が舞い降りた。
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