鏖の季節

阿波野治

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 鬱々とした曇り空が広がる五月の朝八時過ぎ、教室に足を踏み入れた湯田真理愛がうつむいていた顔を上げると、自分の机に白い水仙を活けた花瓶が置かれていた。

「湯田、ごめーん」
 ふらふらと自席まで歩を進めた真理愛に、声を飛ばしてきた生徒がいる。人を見下した笑いをふんだんに含んだ、耳障りな高音。

 真理愛が振り向くと、クラスメイトの川真田樹音が取り巻きの女子生徒数名を机にはべらせ、椅子にふんぞり返ってにやにや笑いを浮かべていた。
 目が合うと、樹音は口元の笑みを深めて、明るい茶色に染めたセミロングヘアをかき上げた。

「あたし、今日の日直なんだけど、花瓶置く場所間違えちゃった。悪いけど、先生の机に戻しといてよ。よろしくね」
 取り巻きたちがいっせいに笑った。カースト下層に属する人間を笑う笑い。……猿の笑い。

 真理愛はスクールバッグを机の横のフックにかけ、花瓶を両手で持ってみる。便器のような色合いと質感のその器には、水が満杯近く入っていて、ずっしりと重い。

 樹音が言った「先生の机」とは、教卓ではなく、前側窓際に置かれた事務机のことだ。
 真理愛はこれから、水仙が活けられた花瓶をそこまで持っていく。猿山のボスから命じられ、拒否する正当な理由が存在しない以上、そうする以外の選択肢はない。
 机の上に花瓶を置き、自分の席に帰る。ただそれだけの簡単な仕事なのに、なぜなのだろう、とても億劫に、なおかつ難儀だと感じるのは。

 真理愛の足取りは重い。一歩床を踏みしめるごとに、花瓶が少しずつ重量を増しているように錯覚される。

「『ご冥福をお祈り申し上げます』とかなんとか、机に書いておいたほうがよかったかな? サインペンででかでかと」
「備品に落書きはやばいって。ちょっと前に男子がそれをやって、停学を食らうレベルで怒られてたじゃん。もう忘れたの?」
「忘れてはいないけどさ。だって湯田、気がついてなくない? あたしたちが葬式ごっこをやってるってこと」
「さすがに気づいてるでしょ。顔に出さないだけで。いじめられているやつって、そういう方面には察しがいいから」

 真理愛のほうをしきりにうかがいながら、樹音たちは言葉を交わす。ひそめているかのように装っているが、その実、いっさいの制限をかけていない声で。

 ――わかってる。わかってるよ、そんなことくらい。

 役目を終えて席に戻った真理愛は、心の中で陰気に呟きながら、スクールバッグの中の教科書類を机にしまっていく。

 川真田さんが花瓶をわたしの机に置いたのはわざとなのも、葬式を演出する意図があるのも、わたしが惨めないじめられっ子なのも、わかってる。みんな、みんな、なにもかも。

 黙々と手を動かしているあいだ、真理愛は絶えず水仙の花の残り香を感じていた。
 静かに消えゆく匂いの幽霊は、彼女を嘲りも慰めもしなかった。
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