鏖の季節

阿波野治

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 最初の一歩を踏み出した瞬間が緊張のピークだった。トモノリからの視線を感じるが、不快ではないし怖いとも思わない。
 彼から四・五メートル離れた場所で自転車のスタンドを立て、踵を返す。少し駆け足になる。ただし、怖くてたまらなくなって、一刻も早くトモノリから遠ざかりたくて、そうしたわけではなかった。
 近づいたさいに一瞥したベニヤ板には、無数の幾何学模様が描かれていた。設計図かなにかだと思われるが、詳細はわからない。板のかたわらに、シンプルなデザインの小さな砂時計が置かれているのも見た。

 トモノリは前輪を目と手でチェックし、自転車をその場に置いたまま小屋の中に入る。開いたドア越しに、巨大な棚があり、隙間なく物が詰め込まれているのが見えた。中は薄暗く、なにが収納されているのかまではわからない。
 彼は三分ほどで小屋から出てきた。右手に空気入れと象牙色の洗面器、左手にアルミ製らしき扁平な缶をそれぞれ持っている。

 小屋の外にある蛇口を捻って洗面器に水を張る。ていねいさと素早さが両立した手つきで前輪からチューブを取り外す。空気入れを使ってチューブに空気を注入する。チューブの位置を少しずつ変えながら洗面器の水に浸ける。パンクした箇所を探しているらしい。
 チューブが引き上げられた。雫がしたたるそれを手に小屋に入り、純白のタオルで水気を拭いながら再び出てくる。放り投げられたタオルは、吹き抜けた風に少し流されてベニヤ板の一端に被さった。
 金属製の缶からシールのようなものを取り出し、パンクした箇所に貼りつける。プラスチック製のヘラのようなもので入念にこする。空気入れでチューブに空気を入れると、着実に膨らんでいく。チューブを前輪に取りつける手つきは、取り外すときと同じく迅速だ。

 トモノリは道具類を小屋の壁際に片づけると、自転車を押して真理愛へと近づいてきた。前輪はスムーズに回転している。

「直ったよ。どうぞ」
 ハンドルが託される。トモノリの物理的な接近を無意識に許可していたことには、ハンドルのほのかな温もりを感じた瞬間に気がついた。作業着からは鉄っぽい匂いがした。
 彼は少し距離をとって真理愛に向き直る。ぞっとするくらいに澄んだ黒曜石の瞳が彼女を見つめる。

「もう乗っても大丈夫だよ。怖がらなくてもいい」
「ありがとうございます。……でも、どうしてこんな親切を?」
「修理のための道具を持っているし、直すのにそう時間はかからないからね。見知らぬ人間から無償で奉仕されて、気持ち悪いと思ったかもしれないけど、見返りを求めるつもりはないから」

 トモノリは口元をわずかに緩めたように見えた。しかし、はっとして問題の部位を注視したときには、特に変化は認められなかった。だから多分、真理愛が見間違えただけなのだろう。
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