鏖の季節

阿波野治

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「ただ、一つ気になったことがあるんだけど」
「……なんですか」
「タイヤの穴、人為的に開けられたものだね。アイスピックかなにか――詳しくは分からないけど、先が尖った道具を使ったのかな」

 真理愛ははっと息を呑んだ。図星をつかれた驚きが過ぎ去ると、目頭が熱くなった。そのまま涙となってこぼれ落ちそうな熱さだ。ハンドルを握っていなければ、制服の胸を握りしめたに違いないくらい、心が乱れた。

「君はK中学の生徒だよね。何年生? 名前は?」
「……答えなければいけませんか?」
「できれば答えてくれるとうれしい。パンクを修理した見返り、ではないけど」
「湯田真理愛。二年生です」

 トモノリは小さくうなずいた。
「みんなから孤立している僕にはできないことも多いけど、逆に、そんな僕だからこそできることもある。なにか困ったことができたなら、気軽にここまでおいで。またね、湯田さん」





 真理愛はホットミルクが好きだ。
 冷たいミルクは喉が受けつけない。加熱していないミルクは、味の底に動物的な生臭さが残っているようで、いつまで経っても好きになれない。
 冷たい飲み物が美味しく感じられる季節になり、真理愛の自室にホットミルクのマグカップが持ち込まれる頻度も減った。代替品を見つけるのには日々苦労させられているが、今宵は例外だ。
 飲み物ではない。物ですらない。想念。それを脳内で弄ぶ。さながら口寂しさをホットミルクで埋めるように。

 トモノリ。苗字はわからない。どんな漢字を書くのかも知らない。トモノリ、ただその四文字。
 噂には聞いていたが、出会ったのは今日が初めての、謎の人物。彼に思いを馳せるだけで、ホットミルクなしでも空虚感とは無縁でいられる。
 善人なのかはわからない。たしかに親切は受けたが、企みを内に秘めて、打算のもとに親切を働く人間はこの世界にいくらでもいる。それこそ、掃いて捨てるくらいに。

 ただ、思ったよりも怖くなかった。拍子抜けしたと言ってもいいくらいだ。最初こそ少し怖さを感じたが、初対面の人間に必然に抱く警戒心のせいだと考えれば、あってないようなものだ。
 だからこそ、トモノリと過ごした一部始終を、穏やかで落ち着いた気持ちで振り返られている今がある。
 内容は総じて取り留めがなく、他愛ない。それでいて、一つ一つが輝かしい。思い出し笑いをしてしまうこともある。時間は飛ぶように過ぎていく。

『なにか困ったことができたなら、気軽にここまでおいで』
 記憶しているいくつかのセリフの中でも、別れぎわに投げかけられたその一言は特に印象深い。

「……なにか困ったことができたなら、か」
 そうであってほしくはないが、広い意味での「困ったこと」は、きっと明日も真理愛のもとにやってくる。
 しかし、たとえ何事もなかったとしても、トモノリに会いたい。それが今の率直な気持ちだ。
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