鏖の季節

阿波野治

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「ねえ湯田、それ、あたしに見せてよ。……なに警戒してるの?」
 樹音は高圧的な薄ら笑いで真理愛を釘づけにしたうえで、ぬいぐるみを無造作に掴んだ。強く引っ張られ、スクールバッグごと真理愛も引き寄せられる。樹音がまとう人工の芳香が嗅覚を支配し、真理愛の心を圧倒する。
 樹音は冷ややかな目でクマを見つめていたが、おもむろに持ち主と視線を合わせ、

「これ、どこで買ったの? 思い入れでもあるの?」
「それは、その……。小学生のときに旅行先で親から買ってもらったもので、ずっとつけてて。だから愛着はある、かな」
「誕生日プレゼントとかじゃなくて?」
「うん。ただのお土産」
 ふぅん、という声。その底に漂う嘲りの気配に、真理愛は息を呑む。樹音はもう一方の手で花飾りをつまみ、
「うりゃっ」
 思いきり引っ張った。断絶する音が立ち、ぬいぐるみの耳元から花飾りが分離した。ため息にも似た嘲りの声が取り巻きたちの口からいっせいに漏れた。

 絶句する真理愛の顔を、樹音が斜め下から覗き込んでくる。加害者グループリーダーの端正な顔には、侮蔑と嘲りの色がくっきりと表れ、歪んだ輝きを放っている。寒気がするほどおぞましく、だからこそ美しくもある、邪悪な表情。

「あー、ほんとだね。古いやつだからすぐに壊れた。ま、こんなものを持ってきているほうが悪いよね。あたしじゃなくて湯田が悪いよ」
 被害者の顔を見つめながら粘っこい声でそう言って、花飾りを足元に捨てる。それだけでは飽き足らず、蹴飛ばす。赤い花飾りは、並べられた机の脚のあいだを奇跡的にすり抜け、教卓の手前で静止した。
 樹音はぬいぐるみを手放し、取り巻きたちに「帰るよ」と呼びかけて移動を開始する。一行はわざわざ花飾りを踏みつけるコースを通って教室から出て行った。

 姿が消えてもなお、樹音由来の芳香は存在感を放っている。
 真理愛は花飾りに歩み寄って拾い上げる。花びらが少しよじれ、埃のせいで白っぽく汚れている。手で歪みを直そうとしたが、戻らない。汚れを払っても落ちない。

 放課後を告げるチャイムが鳴ってからの時間を考えれば、校舎内にはまだ何人もの生徒が残っているはずなのに、人声も物音も聞こえてこない。人気だけは感じられるが、別世界から漂ってきているかのように遠く、現実感が希薄だ。
 真理愛は無人の教室で立ち尽くす。真っ赤な花飾りを手にしたまま、一歩も動けない。きっと誰かから話しかけられたとしても同じだろう。
 空虚だ、と思った。
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