鏖の季節

阿波野治

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「君、どうかしたの?」
 トモノリの声にはありとあらゆる感情がこもっていない。すべすべした印象で、しかし触り心地がいいわけではなく、むしろ気持ち悪い。たとえるならば、鱗一枚ない深海魚のような。

「どうかした、じゃないんだよ。あんた、湯田真理愛っていう女子生徒、知ってるか」
「知っているよ。僕が最近よく話をする女の子だね。K中学校の生徒で、二年生だと聞いているよ。その湯田さんがどうかしたの?」
「とぼけるな。お前はたった今、湯田さんとよく話をしていると言ったけど、それについて俺は物申しに来たんだ」

 声を荒らげたかったが、できなかった。実際に会話をしてみたからこそ伝わってくる、薄気味悪さに頭を抑えつけられたのだ。

「湯田さんと会話する機会を作って、お前はいったいなにを企んでいるんだ? どうせ人には言えないような、やましいことなんだろう。こんな人気もない、人通りもめったにない場所で。ドアを閉ざせば叫んでも声が漏れなさそうな、立派な小屋まであるしな。改めて訊くぜ。湯田さんになにをしようと企んでいるのか、言ってみろ。返答次第ではただじゃおかないぞ」
「君は、どうしてそんなことを訊くの?」
「クラスメイトだからだよ。俺は湯田さんのクラスメイトだから、彼女のことが心配なんだ。ていうか、質問に質問で返すなよ。はぐらかさないで答えろ。今すぐにだ」

 不意打ちで問われて軽く動揺してしまったが、持ちこたえた。一歩も引けをとっていない。どんな言い訳がましい言葉を返してくるのか、臆することなく待ち構える余裕さえ生まれている。
 でも――と、隼人は自問する。
 なにをもってして、この男を打ち負かしたことになるんだ? 俺が勝ったことになるんだ?

「僕と湯田さんの関係を君が知ったのは、君も湯田さんと親しいからなんだろう」
 トモノリの平板な声が束の間の沈黙を破った。
「だったら、湯田さんに直接尋ねたほうが確実なんじゃないかな。だって、さっきまで赤の他人だった僕よりも、クラスメイトで、しかも君とある程度親しい湯田さんのほうが、発言が信用できるんじゃない?」

 隼人は息を呑んだ。はっ、という音声が実際に発されたかのような、大きな息の吸い込みかた。
 正論だ。なにも言い返せない。

「彼女がどう答えるかはわからないけど、なんと答えたとしても、それが真実だと僕は思うことにするよ。だから、僕じゃなくて湯田さんに訊いてみてほしい。きっと湯田さんの答えこそが、君が欲している真実だから」
 トモノリは今になってやっと気がついたとでもいうように、右手に握っていたハンマーを静かに足元に置いた。そして、色のない瞳で隼人を見つめる。
 隼人は居たたまれなくなり、トモノリに背を向けて駆け出した。

 道に出たころには早くも息が切れている。アスファルトと土の硬度の差につんのめりそうになったが、かろうじて踏ん張った。そしてまた走り出す。全力疾走。最悪でもトモノリの視力が及ぶ範囲内から脱するまで、足を素早く交互に動かすのをやめたくない。走って、走って、走りつづける。
 情けなかった。トモノリに見事に返り討ちに遭ったことも。湯田真理愛にトモノリとの関係を問い質すことができず、悶々とした日々を送るだろうことも。
 足りないのは、勇気。圧倒的に勇気。

 俺は、どうすれば勇気を奮い立たせられるんだ?
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