鏖の季節

阿波野治

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「――憎い」
 水色の自転車を押しながら、通学路を自宅に向かって歩く真理愛の唇から、言の葉がこぼれ落ちた。
 その一言を聞いた瞬間、彼女の両足は地面に固着した。人は、自分が発した寝言やいびきに驚いて目を覚ますことがあるが、それと同じことが真理愛の身にも起きたのだ。

 憎い。
 それは、昨日屈辱的な待ちぼうけを食らって以来、魂が抜けたような状態だった彼女がはじめて発した、言葉らしい言葉。それは、現在の心境を率直に表す一言でもある。
 真理愛は憎かった。自分をいじめている人間が、憎い。友情を信じていた自分を裏切った玲奈も、いじめの主犯である樹音も、樹音の犬になって危害を加えてくる取り巻きたちも。

「憎い憎い憎い憎い……」
 幸いにも、小声で切れ目なくつぶやくくらいであれば、誰からの干渉も受けない環境を彼女は歩いている。

 トモノリにいじめについて打ち明けたとき、憎しみも復讐心も所持しているが、実行に移さずにはいられないほど強くないと確認済みだ。
 しかし今、彼女が抱いている感情は強大だ。復讐したくて、したくて、たまらない。凶器が手元にあり、なおかつ対象が目の前にいたならば、倫理観を振りほどいて斬りかかっていただろう。玲奈の行為が厳重に閉ざしていたドアの鍵を開け、その後の樹音たちの行為が流出を加速させたのだ。もはや行動を起こさずにはいられない。

 屋外にトモノリの姿はなかった。
 真っ直ぐに小屋に歩み寄り、ノックもせずにドアを開け放つ。自作の木製の作業台に向かっていた彼は、不意打ちで背後から肩を叩かれた人のように振り向いた。ナイフを右手に、一回り小さな卒塔婆といったサイズの木片を左手に持ち、前者で後者を粗く削っている最中らしい。

「トモノリ。わたし、あいつらのことが憎い。憎くて、憎くて、たまらないよ。もう無理。我慢の限界」
 微かに震える声で、しかしきっぱりと断言した。視線を真っ直ぐにトモノリの顔へと注ぎ、まばたき一つせずに。
 トモノリは手にしているものを静かに台上に置き、体ごと真理愛に向き直る。台の隅、真理愛が手を伸ばせば届く場所には、見慣れた小さな砂時計が置かれている。

「あいつらというのは、君をいじめているクラスメイトの女子のことだね。とても怖い顔をしているけど、なにかあったの?」
「野暮なことを訊くんだね。あったに決まってるでしょ。だから、憎いの。我慢しきれないくらい憎くなったの」
 真理愛は事情を説明する。一つ一つの言葉を強く発音しながらも、穏やかに、冷静に、ある程度理路整然と話すことができた。
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