鏖の季節

阿波野治

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 凶器を引き抜こうとすると、血で滑った。三度ほど試みたが、抜けない。もどかしさが胸に滲むと同時、樹音の存在を思い出す。
 素早く部屋を見回したが、いない。どこにもいない。
 ……消えた?
 半分は呆気にとられて、半分は行方を見極めたい気持ちから、耳をそばだてる。廊下を遠ざかる足音が聞こえた。舌打ちをして立ち上がる。

「樹音! 逃げるな! おい!」
 遠のく速度が加速した。また舌打ちが出た。追いかけようとして、ふと思い出して進路を変え、部屋の隅に飛んでいたハンマーを拾い上げる。玄関ドアが開いたらしい音。一体、二体と死体を跳び越え、和室を飛び出す。
 玄関ドアは開け放たれていた。夜気は湿っていて冷たい。樹音の後ろ姿は闇に紛れている。しかし、足音は聞きとれる。裸足らしい。その認識が真理愛に靴を履くだけの心のゆとりをもたらす。ハンマーをいっそう強く握る。

「樹音っ!」
 ひと声吠えて外に飛び出した。
 川真田家は山中にある。混沌と生い茂った植物の中に身を潜められるのがもっとも厄介なのだが、樹音は曲がりくねった道を馬鹿正直に道なりに走っている。気が動転しているのだろう。追う側と追われる側とでは、心理状態にそれほどの差が出るものなのだ。

 すぐに追いつけると思っていた。樹音は途中で転ぶような気もしていた。追いついたあとは、襟首を掴んで路上に突き飛ばす。転んでくれたならばその手間が省ける。馬乗りになり、これまでに溜め込んだ憎悪を罵詈雑言に変換して浴びせながら、頭部をハンマーで滅多打ちにして殺害。そんな未来が実現すると思っていた。
 しかし、百メートルも走らないうちに息が切れてきた。

 あれっ、と思った。
 一歩ごとに進む距離が通常よりも短いことには、内心で首をかしげたあとで気がついた。樹音との距離は縮まるどころか、足音は次第に遠ざかっていく。
 なぜ? なぜ追いつけない?

 簡単なことだ。息を切らしている現状がそのまま答えになっている。
 疲れているのだ。
 当たり前だ。真理愛は今宵、五人もの人間と格闘し、殺した。

 高宮には手酷く痛めつけられた。守勢に回る時間が長く、あまりにも殴られすぎた。打ち負かせたのが不思議なくらいの強敵だった。渡会、佐久間、花岡、神宮寺玲奈。四人からは攻撃らしい攻撃は食らわなかったが、殺すべく、死に物狂いで凶器を振るって消費した体力は馬鹿にならない。特に渡会の抵抗はかなり激しかった。ハンマーはそれなりの重量があるし、ナイフの刃はかなりの力を込めないと人体には埋まらない。和室の外で殺した二人に関しては、興奮していたのと、人を殺した経験が浅かったのとで、凶器を不必要に振り回しすぎた嫌いがある。
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