鏖の季節

阿波野治

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 やがて、両腕の力が不意に緩んだ。顔を埋めたままだが、心は一定の落ち着きを取り戻したと隼人は判断を下す。
「川真田さん、なにがあったの?」
 呼びかけると、一拍を置いて顔が持ち上がった。涙と汗でぐちゃぐちゃになった顔は、恐怖に強張っている。瞳は隼人を捉えているが、意識は別の対象に注がれている。その対象に樹音は怯えているのだ。
 反応は、呼びかけてから十秒も二十秒も遅れて返ってきた。

「……湯田が」
「湯田さん? 湯田さんがどうしたの?」
「みんなを殺した。寝込みを襲われて、あたし以外の五人はみんな殺された。部屋の外に行ったまま帰ってきていない子が二人いるけど、多分二人とも殺されてる。みんな、みんな、湯田に殺されて、生き残ってるのはあたし一人」
「……マジかよ」

 にわかには信じがたかった。自分が暮らす町で、身近な人間が身近な人間を殺したという非現実的な展開に、頭がついていかない。
 信じがたいと感じる理由をさらに挙げるなら、樹音が加害者だと名指しした湯田真理愛の人となりだ。
 隼人はこれまで真理愛のことを、圧倒的に被害者だと認識していた。いじめられっぱなしの、やられっぱなし、反撃も抵抗もしない人間だと。現在の状況から自力で脱出することがあるのだとすれば、自らの手で自らの命を絶つしかないと思い込んでいた。
 それが、まさか、いじめっ子を殺すことで打破しようとするなんて。

 とうてい信じられる話ではない。樹音たちのグループの誰かが犯した凶行を真理愛になすりつけようとしているのでは、と疑いもした。
 しかし、酷く怯える樹音の顔がその可能性を強く否定する。いじめの首謀者である樹音にとっても、湯田真理愛は圧倒的に被害者だった。だからこそ、反抗したことに虚を衝かれ、手段が殺人だったことに驚愕し、恐怖している。

 話をしたことで、襲われているさなかのことを思い出したらしく、樹音は泣き出した。
 隼人は全身に鳥肌が立ちっぱなしだ。

 湯田真理愛はこれまで、どこを切りとっても被害者でしかなかった。しかし、当たり前だが、被害に甘んじるかたわら、憎悪をため込んできたのだ。復讐心を育んできたのだ。殺意を高めてきたのだ。
 ただ、放出はしなかった。なんらかの方法で小出しにしていたのかもしれないが、大がかりな放出は行わなかった。
 しかしやがて、あふれ出すときが来た。六人中五人を殺し、リーダーの川真田樹音を精神的に追い詰めた。殺し損ねはしたが、実質的に復讐は完了したようなものだ。湯田真理愛の大勝利だ。

 ……俺も。
 俺も一線を越えたい。臆病な自分と決別したい。愛するまりりんと同じ地平に立ちたい。
 そのために必要なのは――。

「川真田さん、大丈夫だよ」
 深更の闇の中でもはっきりとわかるように、前歯を剥き出しにして微笑んで隼人は言う。
「俺がいるから大丈夫だよ。怖い目に遭ったみたいだけど、俺と合流したからもう大丈夫。二度と怯えなくても済むよ」
 左手を横方向に広げて歩み寄る。樹音は少し表情を緩め、自らも彼に近づく。

 隼人はジーンズのポケットから包丁を掴み出す。
 樹音ははっとして立ち止まる。その顔に向かって彼は宣告する。
「だって、お前はここで死ぬんだから」
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