幻影の終焉

阿波野治

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エンブリオでの出会い

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 スーパーマーケット『エンブリオ』の入口に、四・五歳くらいの女児が、大型犬用の首輪と鎖で繋がれている。その小さな手には、一輪の花が大事そうに握られている。蒲公英だ。
 女児は蒲公英にしきりに息を吹きかけているが、綿毛ではなく花の状態なので、小さな卵色の花弁がそよぐばかりだ。
 眼前の光景の意味について考えそうになったが、咄嗟に待ったをかける。
 意味不明な人物や事象や物事は、世の中に掃いて捨てるほどある。一々足を止めていてはきりがない。自分と直接関係があるならば話は別だが、この子は僕にとって赤の他人だ。
 思い出せ、湯川健次。僕が『エンブリオ』まで来た目的はなんだ? 夕食を買うことだ。意味不明な行動を取る人物の相手をすることではない。無関係の他人のことは放っておいて、さっさと店に入ろう。……よし、結論は出た。

 店頭に山積された、銀鼠色のショッピングバスケットを手に自動ドアを潜る。直行したのはいつもの如く、弁当コーナー。
 豊富とも貧層ともつかないラインナップ。その中から、税込み三百九十円のカツ丼弁当を取ろうとして、苦笑をこぼすと共に頭を振る。丼物の弁当は一見ボリュームが多いように見え、僕のように質より量を重視する者の目には魅力的に映るが、上げ底をしてあるので、実際の量は見た目ほどではないのだ。

「凡庸な詐欺師は同一人物を二度騙せない……。経験が何よりも人を強くさせる……」

 カツ丼弁当の隣の幕の内弁当を手に取り、ショッピングバスケットに入れる。
 陳列棚の前から離れた途端、通路の端でショッピングカートに寄りかかっていた老婆が、待っていましたとばかりに動き出した。先程まで僕が立っていた場所に直行し、骨董品の鑑定士さながらの真剣な眼差しで弁当を選び始める。

「せいぜい満足がいく弁当を選ぶがいい」

 過ちを未然に防いだ高揚感に任せて、他の客から怪訝な目で見られるのも厭わずに独り言を呟く。

「あんたの人生、ゴールテープがもう目の前に見えている。それを切ったらどうなるか? 死だ。虚無だ。一巻の終わりだ。復活も再誕も二巻もない……」

 レジへ向かう途中、パン売り場に隣接する和菓子売り場が目に留まった。何か甘いものを買っておこう、という考えが芽生えた。和菓子はあまり好きではない。和菓子売り場に背を向け、スナック菓子やチョコレート菓子の売り場へ。

 チョコレート類が陳列されている棚の前に、少女が佇んでいる。
 小柄で痩せ型。肩までの長さの黒髪からは艶が感じられない。僕よりも少し年下――十五・六歳だろうか。美人でも不美人でもなく、化粧気のない顔に無表情が貼りついている。着ているのは、上は純白のタンクトップ、下は穴だらけのブルージーンズ。胸部の膨らみは豊かでも貧しくもない。
 少女の右隣で足を止め、横目に窺う。
 タンクトップの生地越しに、うっすらと透けて見えているものを認識した瞬間、電流が体を駆け抜けた。
 ノーブラ。
 店内を流れていた楽天的なBGMがミュートされ、視界が少女の胸部とごく僅かな周囲のみに狭まり、心拍数が生命の危機を覚えるレベルまで急上昇する。それでいて、僕は僕の心臓が破裂することなんて心底どうでもよくて。
 ……何だ。何なんだ、これは。

 混乱の中、対象を一層注視するべく、目を凝らす。
 刹那、目の端に銀色がちらついた。ショッピングバスケットの銀鼠色とは似て非なる、黒というよりは白に近い、冷ややかな銀色。
 反射的に視線を転じて、僕は琥珀の中の昆虫のようにフリーズする。
 銀色の正体は、少女の右手に握られた一本の縫い針だった。
 少女の焦げ茶色の瞳は、彼女の前方、自らの胸の高さに陳列されたチョコレートに注がれている。商品名、ソックリマンチョコ。
 棚の最も前に陳列されているソックリマンチョコの袋を、少女は左手で上から軽く押さえ、

「ソックリマンチョコ、ソックリマンチョコ、ソックリマンチョコ……」

 躊躇なく、右側面に縫い針を突き刺した。

「ソックリマンチョ、ソックリマンチョ、ソックリマンチョ……」

 鋭利な銀の刃は、極めて遅い速度で、音もなくソックリマンチョコに埋もれていく。

「クリマンチョ、クリマンチョ、クリマンチョ……」

 ほどなくして、縫い針は完全に袋に埋没した。
 少女の左手がソックリマンチョコを棚から掴み出す。体を九十度右に回し、僕の顔を一瞥し、手にしているものをショッピングバスケットへと投げ入れる。僕に背を向け、速くも遅くもない足取りでその場から去った。
 幕の内弁当の上に載ったソックリマンチョコをつまみ上げる。
 縫い針が突き刺さった箇所は覚えていたので、穴は容易に発見できた。直径は極めて小さく、少女が針を刺した事実を知らなければ、よほど勘が鋭くない限り気がつかないだろう。鼻を近づけると、仄かに甘い匂いがした。
 ソックリマンチョコをショッピングバスケットに戻し、レジへ向かう。

 夜間は水商売に従事していそうな雰囲気をまとった若い女性の店員は、案の定、チョコレート菓子に細工が施された事実には気がつかなかった。支払いは千円以内に収まった。言うまでもなく、釣り銭の受け取りは拒絶した。

「募金箱にでも入れておいてください」

 そう伝えれば、誰もが僕の小さな異常を受け入れる。

 店を出ると、鎖に繋がれていた少女の姿は消えていた。
 僕の心は、その事実について思案する方向に流れるのではなく、帰途に就くことを速やかに選択する。
 景色が透けて見えるほど薄手のレジ袋に商品を詰めている間も、帰宅している間も、僕の心臓は期待と興奮に動悸していた。心拍数が平常に復するには、アパート三階の自室に帰り着いた後、しばらく経って空腹を自覚し、意識が夕食に向かうまで待たなければならなかった。

* * * * *

 駐車場からいつもの男性の声が聞こえてきたのは、自室のフローリング張りの床に直に尻を下ろし、幕の内弁当を食べている最中のことだ。

「殺してやる!」

 直後、若い女性の甲高い悲鳴が響き渡ったのも、いつもと同じだ。
 男性の「殺してやる!」という声。それに続く、女性の叫び声。僕が現在のアパートに引っ越してきた日の夜以来、その二つはワンセットとなって、毎日欠かさず聞こえてくる。
 その声が、一日一回、午後六時から午前零時の間のどこかで聞こえてくるものだと把握するまで、その声自体というより、声がいつ聞こえてくるか分からないことに怯えたものだ。もっとも、そんな過去が微笑ましく思えるくらいに、今ではすっかり慣れた。
 弁当を平らげ、ソックリマンチョコの袋を開封する。内部に沈んだ縫い針の硬さと鋭利さを意識しながら食べ進めると、やがて銀色の一端がチョコレートから覗いた。

「ソックリマンチョ、ソックリマンチョ……」

 つまんで引き抜き、子細に観察する。何の変哲もない縫い針だ。夥しく付着しているチョコレートは、少女の瞳と同じ色をしている。

 チョコレートを食べる。
 左手で縫い針を玩ぶ。
 偶然が引き合わせた少女の、純白の薄手の衣服の下に秘められた、大きくも小さくもない膨らみの全容を想像する。
 三つの作業を並行して行い、同時に終わらせた。

* * * * *

 消灯し、潜り込んだ布団の中で自慰行為に耽る。
 舞台は、どこだろう。どこだっていいし、どうだっていい。とにかく夜で、月も星も出ていない。
 濡れた青草の絨毯の上で、僕は少女に覆い被さっていた。舌と唇でタンクトップ越しに乳房を愛撫しながら、無我夢中で腰を打ちつけている。
 少女の顔は苦悶に歪んでいる。僕の唇と舌の動きも、男性のメタファーの動きも無視して、譫言のように呟き続けている。

「痛・痛・血・痛・膣・通・痛、ちんちん・通・沈・膣・痛・痛、朕・珍・通・痛・沈痛・痛、膣・膣・痛・痛・ちんちん通……」

 これが少女にとって初めてとなるセックスに違いない。そう考えながら、僕は懸命に腰を振り、そして果てた。
 溜息をつき、己の股間に目を落として、彼女が苦しんでいた本当の理由を僕は悟る。
 僕のペニスは、ペニスではなく、銀色の縫い針だったのだ。
 針の尖端にも、彼女の性器の入口にも、絵の具の調合では絶対に実現不可能な、毒々しくも鮮やかな血が付着している。
 だが、それが何だと言うのだろう?
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