幻影の終焉

阿波野治

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雨の朝

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 就寝が早かった分、目覚めるのも早かった。枕元の置き時計の左端に表示された六の数字を見て、早朝だな、と思った。
 赤ん坊の泣き声が聞こえる。気のせいでも、他の音と聞き違えたのでもなく、確かに赤ん坊が泣いていると分かる明晰さと音量をもって、その声は僕の耳に届いた。音源は、詳しくは分からないが、室外。聞く者の心を酷く憂鬱にさせる泣き声だ。

 敷き布団の上に胡座をかき、泣き声を聞くともなしに聞きながら、昨夜、後藤家まで足を運ばなかった事実を思う。
『戦争の足音』に会うために、彼女の自宅を訪問する。一夜明けて顧みてみれば、その選択肢は常に心の片隅に座っていた気がする。
 それなのに、訪問しなかった。
 なぜ? 問いかける前から答えを知っているような感覚を覚えながらも、僕は自問せずにはいられない。そして、いかにも答えならば知っているという顔を見せながらも、もう一人の僕は回答を拒むのだ。

 赤ん坊の泣き声はやまない。

 一昨日の夜、『戦争の足音』は泣いていた。
 遠藤寺の話を信用するならば、『戦争の足音』が日常的に涙しなければならない目に遭っている可能性は高い。
 昨夜も一昨夜と同様、『戦争の足音』はすすり泣いたのではないか。誰かが昨夜、彼女の自宅を訪問し、何らかの働きかけを行っていたならば、彼女は少なくとも、昨夜は泣かずに済んだのではないか。

 赤ん坊は放っておかれているのだ、と思う。

「……うるさいな。誰かどうにかしろよ」

 可哀相だ、とは思わない。

 調理道具を引っ張り出し、泣き声をBGMにチャーハン作りを開始する。全財産が二千円まで減り、残った食材を有効活用する必要に迫られていなければ、朝っぱらからこんな七面倒くさい真似は絶対にしなかった。
 前回と同じく、卵液を後から投入するやり方で作る。卵とご飯と調味料に先駆けて投入した焼豚は、菜箸を使って裂く。他の具材と最低限調和させるために、一定以下のサイズにしたいのだが、思うように裂けない。前回作った時は、今回ほどは苦戦しなかったのに。この調子では、最後の審判の日まで格闘していそうだ。

「……どうせ糞になるんだ」

 悪態をつき、形も大きさも中途半端に裂かれた焼豚を皿に取り出す。この瞬間、本日の朝食の献立は、卵チャーハンと焼豚に変更された。それに伴い、苦労の割に利益が少ない作業からは解放されたが、何をするのも面倒くさい気分からは逃れられない。
 それでいて調理をやめないのは、一旦作業を始めた以上、チャーハンを作り上げて食べた方が、総合的には最も僕の利益になると判断したからに他ならない。考えてもみろ。何もかも面倒くさい気分のまま、中途半端に温かい焼豚をおかずに卵かけご飯を食べるなんて、何も塗っていないトーストを薄いインスタントコーヒーで流し込むよりも、ある意味耐えがたい。

『戦争の足音』がいてくれればいいのに。
 彼女と一緒に料理を作れば、渋面を作っての「めんどくせぇ」が、屈託なく微笑みながらの「面倒くさいな」に、きっとなるはずだ。

 彼女は料理は得意だろうか? お世辞にも器用な人間だとは思えない。僕は簡単な料理なら作れるから、レクチャーするのもいいだろう。フライパンの中ではなく、彼女の体にばかり視線を注いでしまいそうだが。
 指図するだけではなく、実践してみせることもできるし、手取り足取り指導することもできる。
 僕は背後から彼女に密着し、彼女の右手に自らの右手を重ね、菜箸の操作を補助する。必然に股間は尻に密着する。彼女は右手で菜箸、左手でフライパンの取っ手を握っているから、防ぎようがない。僕は空いている左手で、彼女の胸を弄ぼう。乳暈が見え透くほど薄い衣類に覆われただけの胸は、ブラジャーを着用しているよりも遥かに裸に近い。
 剥き出しの胸を揉んでいるに等しい感触に、僕の愚息はいきり立ち、タイトなブルージーンズに包まれた軟らかな尻を圧迫するだろう。興奮のあまり、谷間に沿うようにして擦りつける、という展開に恐らくはなるはずだ。
 股間と左手、二つの動作を半ば機械的に続けながら、僕は耳元に唇を近づける。そして、耳孔に甘美な微風を送り込むようにささやこう。どんな言葉を? それを考えるのは、妄想が実現する目途が立ってからでも遅くない。

 完成したチャーハンは、塩胡椒が少々多すぎた。少なければ後から足せるが、多すぎたのではどうしようもない。そして、食べ終わってから気がついたが、朝食にしては量が多すぎる。明らかな失敗が連続したことで、ちぐはぐな踊りを踊っている感覚に襲われ、やるせない気持ちになった。
 たかがチャーハンごときで、馬鹿馬鹿しい。
 僕を嘲笑う声が聞こえた気がした。
 それとも、敵が欲しいだけか。
 知るかよ、自分の心なんて。

 チャーハンの全量を胃の腑に収め、万年床に横になる。七時間しっかりと睡眠をとった後だけに、眠りが遠い。まるでブラジルかチリかアルゼンチンにあるかのようだ。
 僕は踊っているのか。それとも踊らされているのか。
 作っている間も、食べている間も、食べ終わってからも、赤ん坊は泣き続けている。

 二度寝を断念し、歯を磨いている最中、今日は可燃ゴミの収集日だったことを思い出した。
 僕は基本的に起床が遅いので、収集時間に間に合わないことが多々ある。現在溜まっている可燃ゴミは二袋。全体に占める生ゴミの割合が少ないため、臭いが気になるというほどではないが、処分してしまうに越したことはない。ついでに赤ん坊の様子を確認しておけば一石二鳥だ。
 ゴミ袋を両手に提げて部屋を出ると、空は一面黒雲に覆われている。

 泣き声の主は集積所にいた。ゴミ袋の山に囲まれて、宇宙船じみた金盥の中で、真っ赤な顔をくしゃくしゃに歪めて泣いている。一糸まとわぬ姿だったので、一目で男の子だと分かった。いつの日かアルバムで見た、赤ん坊の頃の自分の顔にどことなく似ている。一方で、生まれて間もない頃は個性がまだ確立されておらず、誰しも似たり寄ったりの顔をしているものなのかもしれない、とも思う。
 面倒事には関わりたくなかった。ゴミ袋を金盥の両サイドに置き、今にも雨粒を降らせそうな雲を見上げながら集積所を後にした。
 泣き声は、九時を回って収集車が集積所に到着し、用事を片づけて走り去るに伴って聞こえなくなった。

 赤ん坊の心配をする必要がなくなると、『戦争の足音』と話がしたいという一念に僕は囚われた。
 彼女を泣かせている病原は、僕の力では取り除けるものではないかもしれない。だとしても、一度彼女に会っておきたい。会って、彼女の身に何が起きているのかを知りたい。可能ならば、彼女の口から直接話を聞きたい。
 面会の結果も、『戦争の足音』の口からどんな言葉が飛び出すのかも、想像もつかない。それ故に恐怖と不安もあるが、それ以上に、『戦争の足音』と二度と会えないかもしれない、という恐怖と不安の方が大きかった。
 会いに行ったが会えなかった昨夜が繰り返されるのでは? 昨日昼食を共にしたのが、彼女と過ごす最後の時間だったのでは? そんな気がしてならない。

『戦争の足音』に会いに行く。
 方針は定まったが、心も体も動かない。雨が降って、雨天中止になればいいのに。そんな馬鹿げたことを考えている。
 情けないやつだな。何をそう躊躇っているんだ?

 躊躇っている根本の原因を突き止めたいような、知らないままでいたいような、どっちつかずの中途半端な心境で時の流れに身を任せているうちに、三日前の夜の出来事を思い出した。
 ハンバーガーショップで注文したフライドポテトに芋虫が混入しているのを発見し、店員に抗議をしたが聞き入れられなかったため、商品に全く口をつけず、支払った代金の返還も求めずに退店した一件――一生思い出したくない思い出ワーストワンのことを。

 あの時、商品にクレームをつけなければ、店で大人しく食事をとっていれば、今頃こんな惨めな思いはしていなかった。
 憤怒が再燃する気配が漂った刹那、僕は唐突に悟る。
 あのような出来事があり、あのような行動を取ったからこそ、『戦争の足音』と知り合えた。僕にとって不愉快極まるあの出来事こそが、僕たちの関係の実質的な始まりだった。
 一生思い出したくない思い出ワーストワンは、ワーストワンどころか、嫌な思い出ですらなかったのだ。

 気がつくと、雨音はやんでいる。
 雨が降っていないのだから、中止なんかじゃない。いや、たとえ歴史に残る規模の大洪水に見舞われたとしても。
 決然と体を起こし、諸々の準備を迅速に整え、外に飛び出した。空は依然として、いつ泣き出すか分からない顔を見せているが、決意が揺らぐことはない。

「……よし」

 小さく声に出し、階段を駆け下りた。
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