幻影の終焉

阿波野治

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全ての終焉

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『戦争の足音』の表情に変化は生じない。
 肩透かしを食らった気がした。何かおかしいぞ、という、警告じみた思いが胸に浮上した。
 それでも、用意した台詞を述べることは止めない。止められない。

「どんなに辛くても、苦しくても、惨めでも、二人一緒なら持ち堪えられるんじゃないかな。慰め合って、支え合って、どうにかやっていけるんじゃないかな。住む家がなかったり、人から白い目で見られたりするのは、耐えがたいことだと思う。でも、見方を変えれば、何ものにも縛られずに生きられるということだ。簡単なことではないかもしれないけど、慣れれば、慣れてしまいさえすれば、案外楽しいんじゃないかな」

 自分の意思とは無関係に喋らされているような、そんな感覚を朧気に覚えながらも、脳内の台本に記されていた台詞の全てを言い切った。言い切った後で、誰かに喋らされていることにしたいだけかもしれない、と思った。
 返答はない。いつの間にか、チョコレート色の彼女の瞳には、冷ややかな色が湛えられている。

「――まあ、その話は一旦置いておいて」

 引きつった笑みを浮かべ、強引さは承知の上で話頭を転じる。

「プリン、食べようか」

『戦争の足音』はうんともすんとも言わない。冷めた目を僕の顔に注ぐばかりだ。

「食べたいと言ったのは君だろう。食べろよ。僕も食べるから」

 プリンの容器の一つを掴み、鼻先に突きつける。『戦争の足音』は容器には見向きもしない。唇を固く閉ざし、瞬き一つせずに僕の顔を正視し続ける。頭に血が昇った。

「何だよ! 君が食べたいって言うから、わざわざ買ってきたんじゃないか!」

 叩きつけるように容器を床に置く。目が覚めるような音が響いたが、『戦争の足音』は表情一つ変えない。
 何だよ、その不満げな態度は。何なんだよ、その蔑むような目は。ホームレスという単語を出した途端にふて腐れやがって。変態暴力親父と同居する方がマシだって言うのかよ。自分から誘ったくせに――。

「出て行け」

 自らの口から飛び出した言葉の峻烈さに、我ながら驚きを禁じ得なかった。軽率な発言をしたことを悔やみもした。しかし同時に、これで方向性は定まったという、奇妙な安心感を覚えたのも事実だ。

「聞こえなかったのか? 出て行けと言っているんだ」

 前言を撤回しなかったのは、要するに、後者の感情が勝ったということなのだろう。
『戦争の足音』の顔に悲しみの色が滲んだ。腰を上げ、すぐさま僕に背を向ける。

「服、着たままでも構わないの?」
「ああ、いいよ。いいから、早く行け」
「じゃあ、もらっていくね」
「風呂、食事、寝る場所、服……。お前が望むものは何だって提供してやったのに、こんな結末かよ」

 吐き捨てるように呟く。反応は示されない。右手を固く握り締め、床に叩きつける。

「さっさと出て行け……!」

『戦争の足音』が動いた。速くも遅くもない足取りで直進し、玄関ドアを開けて部屋の外へ。挨拶の言葉もなくドアが閉まり、僕の視界から消える。靴音が聞こえてこないのを訝しく思ったが、考えてみれば当たり前だ。彼女は裸足でここまで来たのだから。

 本当にこれでよかったのか?
 自問したが、答えは出ない。

 視線を落とすと、床に並んだ二つのプリンが目に映った。
 双眸を極限まで見開いた。
 容器の透明な蓋越しに、小高いホイップクリームの丘の中腹を、体長五ミリほどの一匹の黒い芋虫が、尺取り虫のように体を伸縮させながら這っているのだ。

 腹の底で恐怖が爆ぜた。

「あああああああああっ!」

 第一の叫びを叫び終わった瞬間、生命が蠢く気配を感じ、鋭く振り向く。壁に描かれた赤い抽象画は、今や無数の赤い芋虫と化し、壁の表面を狂おしげに這いずり回っている。虫たちは外へ、外へと広がっていき、最早収拾がつかない。

「わーっ! あーっ! うあああーっ!」

 喚き声を散らしながら部屋を飛び出した。
 階段を駆け下りる。二階と一階の中間に位置する踊り場を通過しようとした瞬間、足を滑らせた。丸太のように転がりながら階段を下り、一階に辿り着くと共に停止する。俊敏に立ち上がり、再び駆け出す。

「わー! なー! あー! だー! がー!」

 奇声を発しながらの全力疾走。異常だという自覚は、頭の片隅で明確に抱いているが、止められない。止めたいのに、止められない。自分の体なのに、操作不可能。

「『戦争の足音』ぉ! 『戦争の足音』ぉお! 『戦争の足音』ぉおおおんっ! わあああああああああっ!」

 どのくらい走っただろう。

 クリーム色の外壁のアパートが視野に映り込み、僕の足は漸く停止する。――遠藤寺桐が住むアパートだ。
 その外観は、僕が住むアパートのそれに酷似している。
 その事実に気がついた瞬間、様々なことを同時に悟った。
 闇雲に駆けていたようで、その実、『戦争の足音』の自宅を目指していたこと。真に訪れるべきは、後藤家ではなく、遠藤寺の自宅だということ。遠藤寺は僕を救う道を呈示してくれるに違いない、ということ。

 階段を駆け上がる。己の両脚が動いている自覚はあったが、丸太のように回転しながら段差の連続を上っているような、そんな感覚がつきまとった。
 遠藤寺の部屋の前に辿り着いた。インターフォンが目に入ったが、無視して右拳でドアを連打する。壁を殴って負傷した傷が疼く。

「遠藤寺! 遠藤寺!」

 応答はない。ノックするのを止めて耳を澄ませれば、応対に出るために接近する足音をドアの内側に聞き取れたかもしれないが、手の動きを制御できない。

「遠藤寺! 遠藤寺!」

 不意に初歩的な誤謬の可能性に思い当たり、右拳は虚空に停止する。慌てていたせいで、部屋を間違えたのでは? 遠藤寺が現れるはずのないドアをノックし続けていたのでは? 表札に注目すると――。
 遠藤寺。
 その三文字を視認し、安堵が胸に到来した、次の瞬間、

 べりり、と音を立てて、「遠藤寺」の三文字もろともと、表札の表面が剥離した。
 表れた文字は、フライドポテトの容器内に芋虫の混入を見出した事件に端を発する一連の騒動の、結末を、結論を、意味を、親切に、無慈悲に、僕に示した。





 The end.
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