生きづらい。

阿波野治

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なにかの始まり

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 虐められている人間からすれば、きついか・きつくないかの区別をつけること自体ナンセンスなのだろうが、谷崎さんがクラスの男子から受けている虐めは、明らかにきつい虐めだった。女子を相手に、男子が数人がかりで暴力を振るうのは、いくら手加減をしているといっても、やりすぎ以外のなにものでもない。
 谷崎さんの周りの人間は、誰も虐めをとめようとはしなかった。担任教師も、僕を含むクラスメイトも、誰一人として。
 無力な被害者と無恥な加害者と無能な傍観者しかいないこの教室で、谷崎さんが地獄から脱出する方法は、物理的に教室から遠ざかる以外になさそうだった。彼女を助ける勇気を持たない僕は、是非ともそうしてほしいと密かに願っていた。

 願いとは裏腹に、谷崎さんは毎日欠かさず教室に姿を見せた。遅刻や早退をすることもなければ、休み時間に他所へ一時的に避難することもなかった。
 毎日毎日辛い目に遭っているのに、彼女はなぜ、学校に通い続けるのだろう?
 学校に通い続けることに、彼女はどんな意味を見出しているのだろう?
 凄惨と言っても過言ではない日々の虐めは、谷崎さんの精神状態に着実に悪影響を与えているらしく、彼女はいつからか、一人でいる時に小声で独り言を呟くようになった。僕は彼女の隣の席だから、彼女の異変に誰よりも早く気がついた。
 谷崎さんの身に、近々なんらかの劇的な変化が起きるのではないか。そんな気がしてならなかった。



 その時は思いのほか早く訪れた。
 谷崎さんを虐める連中は、授業中だろうとお構いなしに彼女を傷つける。その日も、的当てゲームと称して、消しゴムのカスやノートの切れ端を丸めたものを彼女に向かって投げつけ、誰が最も多く頭部に命中させられるか、という幼稚な遊びに興じていた。
 彼らの席はいずれも、谷崎さんの席からは離れていたので、球は彼女の体にさえなかなか当たらない。しかしとうとう、彼らの中の一人が放ったシャープペンシルの蓋が、彼女の後頭部にクリーンヒットした。

 その瞬間、谷崎さんは「あー」とも「わー」とも聞こえる大声を発し、勢いよく椅子から立ち上がった。
 教室は水を打ったように静まり返った。
 谷崎さんはペンケースの中身を机上にぶちまけた。数ある文房具の中から、迷いなくカッターナイフを手に取り、刃を突出させる。

「危ない!」

 思わず席を立って叫んだ。しかし彼女が次に取った行動は、僕の想像したものとは異なっていた。黒板の前まで歩いて移動すると、僕たちの方を向き、大声で喋り始めたのだ。

「あなたたちからすれば、私は無意味な存在かもしれない」

 刃を自らの左手首に近づけ、横線を引く。ワンテンポ遅れて、二センチほどの赤いラインが滲み出る。

「あなたたちからすれば、自傷行為は無意味に思えるかもしれない。二センチの切り傷は二センチの切り傷でしかないかもしれない。……でも」

 手にしているものを足元に投げ捨てる。銀色の刃には、赤いものがうっすらと付着している。

「私にとって、自傷行為は意味があることなの。二センチの切り傷は二センチの切り傷以上の価値を持つの。どうせ、どうせ、あなたたちには分からないだろうけど……!」

 谷崎さんは教室を飛び出した。
 僕は彼女の後を追いかけた。教師が呼び止める声が聞こえたが、無視した。



 谷崎さんは体育館裏で立ち尽くしていた。

「谷崎さん」

 声をかけると、振り向いた。驚いたような顔をしていた。僕はその場に跪き、

「ごめんなさい」

 額を地面に押しつけた。彼女の表情にどんな変化が現れたのかは、下を向いていたので分からない。

「谷崎さんは毎日あんな酷い目に遭っているのに、どうして休まずに学校に来るんだろうって、不思議でたまらなかった。もしかしたら、自分でもなぜそうしているのかが分かっていないんじゃないか、なんて思ったりもした。でも、そうじゃなかったんだね。ちゃんと理由があったんだね。それが具体的にどんな理由なのかは、僕はまだ理解していなくて、でも、理由もなしに学校に来ているわけじゃないことはちゃんと理解していて、だから、つまり、その、なにが言いたいかというと、要するに――」
「顔を上げて」

 穏やかな声に言葉を遮られた。言う通りにすると、谷崎さんははにかむように笑っていた。僕のもとに歩み寄る。

「理解していないなら、舐めて。ほら」

 左手首を差し出す。傷口からうっすらと滲んだ血は、まだ固まりきっていない。
 谷崎さんの左腕を両腕で掴み、傷口に顔を近づけ、赤を舐め取る。彼女の口からこぼれた微かな声、舌先に感じた鉄の味――。
 なにかが始まる予感がした。
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