生きづらい。

阿波野治

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抑圧の時代

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 自動ドアが開き、客が店に入ってきた。黒縁の眼鏡をかけ、ダークグレイのスーツを着た、三十歳前後の男。いらっしゃいませ。何名様ですか? 決まりきった台詞、決まりきった笑顔。
 客の男は小さく舌打ちをした。心の声が聞こえてくるようだ。何名様ですか、だって? どこからどう見ても、俺は一人だろう。背後霊でも見えるのかい、店員さん?
 おかしなことを言っている自覚はあるわ。私は必死の思いで営業スマイルを維持する。でも、そう言わなければいけないの。私はマニュアルに従わなければいけない立場なの。
 一名様ですね。お煙草は喫われますか? 客の男は面倒くさそうに頭を振る。それでは禁煙席にご案内します。歩き出す。客の男がついてくる。店の奥を目指して通路を進む。

 テレビの音が聞こえてくる。チャンネルはニュース番組。天皇皇后両陛下が被災地の仮設住宅を訪問したらしい。体調を気遣っていただき、とても嬉しかった。白髪の老婆は、そのような意味の感想をズーズー弁で語った。
 小雪がちらつく中、高齢にもかかわらず、被災地にわざわざ足を運んだ天皇皇后両陛下。狂気の沙汰だ、と私は思う。しかし人々は、両陛下の被災地への訪問を評するにあたって、ネガティブな表現は決して用いない。当たり障りのない、ありふれた言葉や言い回しばかりを使う。

 唐突に、被災地に贈られた千羽鶴の話を思い出した。
 震災発生から数日後、とある避難所に、大量の折り鶴が入った段ボール箱が届けられた。送り主は、東京の小学校に通う児童たち。段ボール箱には折り鶴と共に、被災者への応援メッセージが綴られた寄せ書きが同梱されていたという。
 少年少女からの善意の贈り物は、被災者たちにとっては有難迷惑以外のなにものでもなかったらしい。今、自分たちに必要なのは食料や水や毛布であって、紙細工や落書きでは断じてない。ゴミを送りつけてくるな。もっと被災者のことを考えろ。それが彼らの総意だったそうだ。

 震災関連のニュースが続いている。テレビに注目している客は一人もいない。同席者と会話を交わしながら食事をしているか、手持無沙汰を紛らわせるためにスマートフォンを弄っているか、そのどちらかだ。
 ズーズー弁の白髪の老婆は、天皇皇后両陛下に体調を気遣ってもらい、嬉しかったと語っていた。
 老婆はなぜ嬉しかったのだろう? 言葉をかけたのが両陛下だったから? 体調を気遣われたから? では、両陛下ではない人物から体調を気遣われたとしたら、老婆は嬉しいと思っただろうか? 両陛下が体調を気遣うのではなく、たとえば「頑張ってください」と一声かけただけだったとしたら、老婆は嬉しいと思っただろうか?

 お席はこちらになります。客の男は私には見向きもせずに椅子に腰を下ろす。胸ポケットからスマートフォンを取り出し、操作し始める。水はセルフサービスになっていますので、あちらのドリンクバーをご利用ください。客の男は顔を上げない。男性アナウンサーは淡々とした口調で原稿を読み上げる。震災発生からX年になる今日、全国各地で震災の犠牲者を追悼する催しが開かれ――。

 ご注文がお決まりになりましたら、ベルを押してお呼びください。軽く頭を下げ、客の男に背を向ける。
 店員さん。
 背後からの声。振り向くと、客の男と目が合った。
 カレーピラフを一つ。
 客の男はそう告げ、再びスマートフォンの画面に目を落とした。
 ……嗚呼。
 誰も見ていないのをいいことに、私は顔を大きく歪める。
 私は知っていた。男がいつも一人で来店することを。煙草を喫わないことを。必ずカレーピラフを注文することを。
 そう、この男は、常連客。
 それなのに、私は。

 黙して立ち尽くす私を怪訝に思ったのか、客の男性が顔をこちらに向けた。私は咄嗟に営業スマイルを作り、
 いつもの、ですね。かしこまりました。
 ……という言葉を唾と共に呑みこむ。カレーピラフがお一つ、ですね。かしこまりました。お辞儀をし、その場を離れる。
 通路を引き返す私の耳に、男性アナウンサーの声が流れ込んでくる。なにを言っているのか、客の声がうるさくて聴き取れない。
 私は思う。
 東京の小学校に通う児童たちは、大人に命じられて嫌々折り鶴を折り、嫌々寄せ書きを書いたに違いない。
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