さようなら、空色。

阿波野治

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「でも、そのときは私、求職活動中だったのね。もうじき三十路だし、文句を言える立場じゃなかった。つっぱねたところで、他に選択肢があるわけでもないし。ようするに、いやいや働き始めたわけ。最初はやっぱり、怖かったよ。お客さんからなにか言われるんじゃないか、笑われるんじゃないかって、常に怯えていた。平常心を保つのが難しかった。きれいな声が集まっている場だから、どうしても意識してしまって。だけどね」

 ベンチに腰かけてから初めて、遥の顔に変化が現れた。微笑が浮かんだのだ。作為が感じられない、過ぎ去りし日を懐古するような、穏やかな微笑が。

「働くうちに、この場所に来る人たちはそんなつまらないことには注意を向けないって、身をもって知った。みんな美しくてきれいな声が好きで、それを聴くためにこの美術館を訪れている。だから、私の醜い声なんてどうでもいいの。なにかが好きで、好きでたまらない人って、多分みんなそんな感じじゃないかな。好きなものに目が眩んで、視野狭窄に陥って、時に周りの人間を傷つけてしまうんじゃなくて、心がとても大らかで、自分からは決して人に不快感を与えない。声が悪いと、それに足を引っ張られて積極的になれないから、どうしても行動範囲が狭くなってしまって、趣味らしい趣味を持てなくて。だから、好きっていう気持ちを持つ人の心のきれいさと優しさは、ここで働くようになって初めて知ったの」

 大地は考えずにはいられない。
 遥いわく、好きという気持ちを持つ人間は心がきれいだという。
 それでは、ソラを愛する僕の心はどうなのだろう。ストーカーまがいの執念で、彼女に繋がる情報を探し求めた僕は。
 そして、好きという言葉を広く解釈したならば、目の前にいる人に対しては。

「真剣な顔、笑っている顔、感動している顔。いろいろな顔があるけど、鉱石の声と向き合う人を見ると、ここで働いてよかったって思う。勤務中のささやかな楽しみといっても過言ではないかな。私自身も、仕事としてたくさんの声を聞いたことで、声の素晴らしさを知ることができた。多くの人たちを夢中にさせるのも頷けるな、きれいな声というのは素敵なものなんだなって。この声に比べると私の声はなんて醜いんだろうとか、そういう後ろ向きなことは全然考えないよ。聴いている最中も、聴いたあとも。美しさの度合いに隔たりがありすぎて、比較対象にならないんだろうね。強がるとか割り切るとかじゃなくて、自分の声の酷さと向き合わずに過ごせる場所。それが私にとっての『声と音の美術館』なの」

 遥は左胸に宛がっていた手を外し、白い歯をこぼした。ほんの少し、彼女の体が大地へと近づく。

「あなたは人の立場に立って物事を考えられる、心優しい人なんだと思う。でも、私に気をつかって感情を抑えるよりも、ちょっと鬱陶しいかな、くらいに熱く語ってくれるほうが、私としては嬉しいかな。自分の声にコンプレックスを持ってはいるけど、きれいな声が好きで、憧れている人間でもあるからね。だから、私のことなんて気にしないで、素晴らしい声たちを子供みたいに無邪気に楽しんで。そうしてくれたら、美術館に勤める職員としても、一個人としても嬉しいです」
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