さようなら、空色。

阿波野治

文字の大きさ
45 / 71

45

しおりを挟む
 鼓動がいくらか速まっていることには、七海との通信が断ち切られたあとで気がついた。額にうっすらとかいた汗は、美術館を目指して歩いているうちに、夜風に冷却されて消えるだろう。
 口振りや言葉の選び方などから総合的に判断した限り、美術館通いが続いていることに対して、七海が薄気味悪さを感じているのは確からしい。ただ、そのあと口にしていた「変なことをしでかしそう」発言に関しては、完全なる冗談だろう。そう言ったあとずっと、七海が含み笑いをしていたのがなによりの証拠だ。
 ――とはいえ。

「……危なかった」
 計画を見透かしているかのような発言をされて、大地を襲った動揺は決して小さくなかった。それでも平常心を保てたのは、「やばいこと」の具体例として、「高価な美術品を盗む」と口にできたのが大きかった。あのおかげで開き直ることができ、ふてぶてしく受け答えができた。美術館へ出かけるという名目のおかげで、早めに通話を打ち切れたのも運がよかった。七海は間違いなく、兄が邪な企みを胸に秘めていることには気がつかなかった。

 ただ、心境は凪からは程遠い。
 結婚式が台無しになるから愚行は謹んで、という七海の発言が、いつまで経っても消えてくれない。
 鉱石を盗むという選択肢を思いついてからというもの、大地は自分のことしか考えてこなかった。

 どうすれば誰にもばれずに盗み出せるだろう。
 犯行に成功したらどんなに素晴らしい日々が待っているのだろう。
 逆に手に入れられなかった場合、どれほど惨めな生活を送らなければならないのか。





 己に関係する利害にばかり目が向いて、他人にどのような影響が及ぶかなど微塵も考えなかった。
 仮に犯行が失敗に終わって、大地の罪が近しい人に伝えられたとして、もっとも損害を被るのは、七海と夫の宮城雄大の二人だ。結婚式は当然、中止に追い込まれるだろう。それだけで済むならまだいいが、婚約解消に発展しないとも限らない。美声を自分だけのものにしたいというエゴが、二人のなんの落ち度もない人間を不幸に突き落とすことになるのだ。

 それだけではない。
 勤め先からは、解雇を言い渡されるだろう。両親には、勘当に近い処置を下されるに違いない。現在の住まいに、果たして住み続けられるかどうか。
 さらには、遥にまで迷惑をかけることになる。

 大地の足は止まる。前方に赤信号が待つわけでも、目前に障害物があるわけでもない、雑居ビル前方の歩道の一点で。
 後方を歩いていたスーツ姿の男性が、突如として進路に出現した障害物に急ブレーキをかけ、迷惑そうな一瞥を投げかけて追い抜く。前から歩いてきた中年女性が、怪訝そうに横目をくれながらすれ違う。彼ら以外の通行人は、大地には目もくれない。

 歩き慣れたはずの夜の街が、酷くよそよそしく感じられる。呆然と立ち尽くす大地の真っ白な頭の中に、もう一人の自分の声が響く。
『引き返せ。後悔は先に立たないぞ。今ならまだ遅くない』

 大地は小さく頭を振り、美術館を目指して歩き出した。
 彼は臆病な男だ。明確で重大なリスクを認識した時点で、犯行の意志は大きく萎えていた。ソラのためとはいえ、自らに降り注ぐ不幸が、周りの人間に降りかかる迷惑が、あまりにも大きすぎる。彼が美術館へ向かっているのは、既定の入館料を払い、合法にソラの声を聴くためであって、犯行を実行するためではない。

 ただ、道中、一度だけ暗い想念が胸を過ぎった。
 ――犯行がばれなければ誰にも迷惑はかからない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

診察室の午後<菜の花の丘編>その1

スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。 そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。 「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。 時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。 多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。 この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。 ※医学描写はすべて架空です。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...