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鼓動がいくらか速まっていることには、七海との通信が断ち切られたあとで気がついた。額にうっすらとかいた汗は、美術館を目指して歩いているうちに、夜風に冷却されて消えるだろう。
口振りや言葉の選び方などから総合的に判断した限り、美術館通いが続いていることに対して、七海が薄気味悪さを感じているのは確からしい。ただ、そのあと口にしていた「変なことをしでかしそう」発言に関しては、完全なる冗談だろう。そう言ったあとずっと、七海が含み笑いをしていたのがなによりの証拠だ。
――とはいえ。
「……危なかった」
計画を見透かしているかのような発言をされて、大地を襲った動揺は決して小さくなかった。それでも平常心を保てたのは、「やばいこと」の具体例として、「高価な美術品を盗む」と口にできたのが大きかった。あのおかげで開き直ることができ、ふてぶてしく受け答えができた。美術館へ出かけるという名目のおかげで、早めに通話を打ち切れたのも運がよかった。七海は間違いなく、兄が邪な企みを胸に秘めていることには気がつかなかった。
ただ、心境は凪からは程遠い。
結婚式が台無しになるから愚行は謹んで、という七海の発言が、いつまで経っても消えてくれない。
鉱石を盗むという選択肢を思いついてからというもの、大地は自分のことしか考えてこなかった。
どうすれば誰にもばれずに盗み出せるだろう。
犯行に成功したらどんなに素晴らしい日々が待っているのだろう。
逆に手に入れられなかった場合、どれほど惨めな生活を送らなければならないのか。
己に関係する利害にばかり目が向いて、他人にどのような影響が及ぶかなど微塵も考えなかった。
仮に犯行が失敗に終わって、大地の罪が近しい人に伝えられたとして、もっとも損害を被るのは、七海と夫の宮城雄大の二人だ。結婚式は当然、中止に追い込まれるだろう。それだけで済むならまだいいが、婚約解消に発展しないとも限らない。美声を自分だけのものにしたいというエゴが、二人のなんの落ち度もない人間を不幸に突き落とすことになるのだ。
それだけではない。
勤め先からは、解雇を言い渡されるだろう。両親には、勘当に近い処置を下されるに違いない。現在の住まいに、果たして住み続けられるかどうか。
さらには、遥にまで迷惑をかけることになる。
大地の足は止まる。前方に赤信号が待つわけでも、目前に障害物があるわけでもない、雑居ビル前方の歩道の一点で。
後方を歩いていたスーツ姿の男性が、突如として進路に出現した障害物に急ブレーキをかけ、迷惑そうな一瞥を投げかけて追い抜く。前から歩いてきた中年女性が、怪訝そうに横目をくれながらすれ違う。彼ら以外の通行人は、大地には目もくれない。
歩き慣れたはずの夜の街が、酷くよそよそしく感じられる。呆然と立ち尽くす大地の真っ白な頭の中に、もう一人の自分の声が響く。
『引き返せ。後悔は先に立たないぞ。今ならまだ遅くない』
大地は小さく頭を振り、美術館を目指して歩き出した。
彼は臆病な男だ。明確で重大なリスクを認識した時点で、犯行の意志は大きく萎えていた。ソラのためとはいえ、自らに降り注ぐ不幸が、周りの人間に降りかかる迷惑が、あまりにも大きすぎる。彼が美術館へ向かっているのは、既定の入館料を払い、合法にソラの声を聴くためであって、犯行を実行するためではない。
ただ、道中、一度だけ暗い想念が胸を過ぎった。
――犯行がばれなければ誰にも迷惑はかからない。
口振りや言葉の選び方などから総合的に判断した限り、美術館通いが続いていることに対して、七海が薄気味悪さを感じているのは確からしい。ただ、そのあと口にしていた「変なことをしでかしそう」発言に関しては、完全なる冗談だろう。そう言ったあとずっと、七海が含み笑いをしていたのがなによりの証拠だ。
――とはいえ。
「……危なかった」
計画を見透かしているかのような発言をされて、大地を襲った動揺は決して小さくなかった。それでも平常心を保てたのは、「やばいこと」の具体例として、「高価な美術品を盗む」と口にできたのが大きかった。あのおかげで開き直ることができ、ふてぶてしく受け答えができた。美術館へ出かけるという名目のおかげで、早めに通話を打ち切れたのも運がよかった。七海は間違いなく、兄が邪な企みを胸に秘めていることには気がつかなかった。
ただ、心境は凪からは程遠い。
結婚式が台無しになるから愚行は謹んで、という七海の発言が、いつまで経っても消えてくれない。
鉱石を盗むという選択肢を思いついてからというもの、大地は自分のことしか考えてこなかった。
どうすれば誰にもばれずに盗み出せるだろう。
犯行に成功したらどんなに素晴らしい日々が待っているのだろう。
逆に手に入れられなかった場合、どれほど惨めな生活を送らなければならないのか。
己に関係する利害にばかり目が向いて、他人にどのような影響が及ぶかなど微塵も考えなかった。
仮に犯行が失敗に終わって、大地の罪が近しい人に伝えられたとして、もっとも損害を被るのは、七海と夫の宮城雄大の二人だ。結婚式は当然、中止に追い込まれるだろう。それだけで済むならまだいいが、婚約解消に発展しないとも限らない。美声を自分だけのものにしたいというエゴが、二人のなんの落ち度もない人間を不幸に突き落とすことになるのだ。
それだけではない。
勤め先からは、解雇を言い渡されるだろう。両親には、勘当に近い処置を下されるに違いない。現在の住まいに、果たして住み続けられるかどうか。
さらには、遥にまで迷惑をかけることになる。
大地の足は止まる。前方に赤信号が待つわけでも、目前に障害物があるわけでもない、雑居ビル前方の歩道の一点で。
後方を歩いていたスーツ姿の男性が、突如として進路に出現した障害物に急ブレーキをかけ、迷惑そうな一瞥を投げかけて追い抜く。前から歩いてきた中年女性が、怪訝そうに横目をくれながらすれ違う。彼ら以外の通行人は、大地には目もくれない。
歩き慣れたはずの夜の街が、酷くよそよそしく感じられる。呆然と立ち尽くす大地の真っ白な頭の中に、もう一人の自分の声が響く。
『引き返せ。後悔は先に立たないぞ。今ならまだ遅くない』
大地は小さく頭を振り、美術館を目指して歩き出した。
彼は臆病な男だ。明確で重大なリスクを認識した時点で、犯行の意志は大きく萎えていた。ソラのためとはいえ、自らに降り注ぐ不幸が、周りの人間に降りかかる迷惑が、あまりにも大きすぎる。彼が美術館へ向かっているのは、既定の入館料を払い、合法にソラの声を聴くためであって、犯行を実行するためではない。
ただ、道中、一度だけ暗い想念が胸を過ぎった。
――犯行がばれなければ誰にも迷惑はかからない。
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