29 / 91
三日目 その6
しおりを挟む
やがて歩行が止まる。
わたしは姫の手首から手を解放し、荒い呼吸をくり返す。姫は握られた箇所を無意識のように手でさすりながら、わたしを見上げる。
「ナツキ、きゅうにどうしたの?」
心底不可解でならない、といったその声は、わたしの息が整ったのを見計らったようなタイミングで投げかけられた。
「逆に訊くけど、わたしがなんで走ったのか、心当たりはある?」
姫は頭を振った。
つまり、不届き者から魔手を及ぼされそうになった自覚はない。
わたしはおそらく、無意識にほほ笑んだのだろう。姫はその変化の意味が解せないらしく、小首を傾げた。
自分の身に、なにが起きたのか。なにが起ころうとしていたのか。分からないなら、それでいい。そのほうがいい。
* * *
男性から蛮行を及ぼされる寸前の姫を目の当たりにしたとき、幼いころの自身の体験が甦った。
まだ初潮は迎えていなかったから、小学四年生よりも前だろう。休日、両親に連れられて駅前のデパートを訪れたわたしは、屋上にあるペットショップに来ていた。
ハムスターだったのか、モルモットだったのか、ハツカネズミだったのか。とにかく小型のげっ歯類を熱心に見物していると、わたしの隣に誰かが立った。髪の毛と服がねずみ色の、幼いわたしの感覚からすればおじいさんという見た目の男性で、にこにこ顔でわたしのことを見ていた。
わたしと目が合うと、おじさんはげっ歯類のケージへと注目を移した。
ねずみ色のおじいさんの体からは、動物の糞尿臭とは似て非なる悪臭が漂っていた。今のわたしなら「饐えたような臭い」と表現しただろう。
ねずみ色のおじいさんや、おじいさんから漂ってくる悪臭よりも、小動物に関心があったわたしは、ケージの中へと視線を戻した。直後、誰かに腕を掴まれた。含まれている水分が少なく、皮のすぐ内側に骨があるような、そんな感触だ。
掴んだ人物は、ねずみ色のおじいさんだった。彼はにこにことではなく、にたにたと笑っていた。
嫌だ、と思った。
そのとき、わたしの周りには誰もいなかった。つまり、わたしが嫌だと思うことをおじいさんがしたとしても、甘んじて受け入れるしかない。そんなのは、困る。
しかし、どうしようもない。体が動かないし、口をきけないから、逃げることも、助けを呼ぶことも不可能。
おじいさんがわたしに顔を近づけて、なにか言った。生ごみの臭いがした。
直後、「ナツキ」とわたしを呼ぶ声がした。
おじいさんは弾かれたように手を離し、一歩二歩と後ずさりをした。声がしたほうを振り向くと、母親が――お母さんが、ペットショップの戸口に佇んでいた。レジ袋を右手に提げて、緊張感に欠ける顔をこちらに向けている。買い物が終わったから迎えにきたのだ。
金縛りは解けていた。おそらくは、お母さんの声を聞いた瞬間に。
わたしはお母さんのもとへと走った。ねずみ色のおじいさんがどう行動したのかは、一顧だにしなかったので分からない。
わたしは姫の手首から手を解放し、荒い呼吸をくり返す。姫は握られた箇所を無意識のように手でさすりながら、わたしを見上げる。
「ナツキ、きゅうにどうしたの?」
心底不可解でならない、といったその声は、わたしの息が整ったのを見計らったようなタイミングで投げかけられた。
「逆に訊くけど、わたしがなんで走ったのか、心当たりはある?」
姫は頭を振った。
つまり、不届き者から魔手を及ぼされそうになった自覚はない。
わたしはおそらく、無意識にほほ笑んだのだろう。姫はその変化の意味が解せないらしく、小首を傾げた。
自分の身に、なにが起きたのか。なにが起ころうとしていたのか。分からないなら、それでいい。そのほうがいい。
* * *
男性から蛮行を及ぼされる寸前の姫を目の当たりにしたとき、幼いころの自身の体験が甦った。
まだ初潮は迎えていなかったから、小学四年生よりも前だろう。休日、両親に連れられて駅前のデパートを訪れたわたしは、屋上にあるペットショップに来ていた。
ハムスターだったのか、モルモットだったのか、ハツカネズミだったのか。とにかく小型のげっ歯類を熱心に見物していると、わたしの隣に誰かが立った。髪の毛と服がねずみ色の、幼いわたしの感覚からすればおじいさんという見た目の男性で、にこにこ顔でわたしのことを見ていた。
わたしと目が合うと、おじさんはげっ歯類のケージへと注目を移した。
ねずみ色のおじいさんの体からは、動物の糞尿臭とは似て非なる悪臭が漂っていた。今のわたしなら「饐えたような臭い」と表現しただろう。
ねずみ色のおじいさんや、おじいさんから漂ってくる悪臭よりも、小動物に関心があったわたしは、ケージの中へと視線を戻した。直後、誰かに腕を掴まれた。含まれている水分が少なく、皮のすぐ内側に骨があるような、そんな感触だ。
掴んだ人物は、ねずみ色のおじいさんだった。彼はにこにことではなく、にたにたと笑っていた。
嫌だ、と思った。
そのとき、わたしの周りには誰もいなかった。つまり、わたしが嫌だと思うことをおじいさんがしたとしても、甘んじて受け入れるしかない。そんなのは、困る。
しかし、どうしようもない。体が動かないし、口をきけないから、逃げることも、助けを呼ぶことも不可能。
おじいさんがわたしに顔を近づけて、なにか言った。生ごみの臭いがした。
直後、「ナツキ」とわたしを呼ぶ声がした。
おじいさんは弾かれたように手を離し、一歩二歩と後ずさりをした。声がしたほうを振り向くと、母親が――お母さんが、ペットショップの戸口に佇んでいた。レジ袋を右手に提げて、緊張感に欠ける顔をこちらに向けている。買い物が終わったから迎えにきたのだ。
金縛りは解けていた。おそらくは、お母さんの声を聞いた瞬間に。
わたしはお母さんのもとへと走った。ねずみ色のおじいさんがどう行動したのかは、一顧だにしなかったので分からない。
0
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる