わたしと姫人形

阿波野治

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三日目 その6

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 やがて歩行が止まる。
 わたしは姫の手首から手を解放し、荒い呼吸をくり返す。姫は握られた箇所を無意識のように手でさすりながら、わたしを見上げる。
「ナツキ、きゅうにどうしたの?」
 心底不可解でならない、といったその声は、わたしの息が整ったのを見計らったようなタイミングで投げかけられた。

「逆に訊くけど、わたしがなんで走ったのか、心当たりはある?」
 姫は頭を振った。
 つまり、不届き者から魔手を及ぼされそうになった自覚はない。
 わたしはおそらく、無意識にほほ笑んだのだろう。姫はその変化の意味が解せないらしく、小首を傾げた。
 自分の身に、なにが起きたのか。なにが起ころうとしていたのか。分からないなら、それでいい。そのほうがいい。


* * *


 男性から蛮行を及ぼされる寸前の姫を目の当たりにしたとき、幼いころの自身の体験が甦った。

 まだ初潮は迎えていなかったから、小学四年生よりも前だろう。休日、両親に連れられて駅前のデパートを訪れたわたしは、屋上にあるペットショップに来ていた。
 ハムスターだったのか、モルモットだったのか、ハツカネズミだったのか。とにかく小型のげっ歯類を熱心に見物していると、わたしの隣に誰かが立った。髪の毛と服がねずみ色の、幼いわたしの感覚からすればおじいさんという見た目の男性で、にこにこ顔でわたしのことを見ていた。

 わたしと目が合うと、おじさんはげっ歯類のケージへと注目を移した。
 ねずみ色のおじいさんの体からは、動物の糞尿臭とは似て非なる悪臭が漂っていた。今のわたしなら「饐えたような臭い」と表現しただろう。

 ねずみ色のおじいさんや、おじいさんから漂ってくる悪臭よりも、小動物に関心があったわたしは、ケージの中へと視線を戻した。直後、誰かに腕を掴まれた。含まれている水分が少なく、皮のすぐ内側に骨があるような、そんな感触だ。
 掴んだ人物は、ねずみ色のおじいさんだった。彼はにこにことではなく、にたにたと笑っていた。
 嫌だ、と思った。 

 そのとき、わたしの周りには誰もいなかった。つまり、わたしが嫌だと思うことをおじいさんがしたとしても、甘んじて受け入れるしかない。そんなのは、困る。
 しかし、どうしようもない。体が動かないし、口をきけないから、逃げることも、助けを呼ぶことも不可能。

 おじいさんがわたしに顔を近づけて、なにか言った。生ごみの臭いがした。
 直後、「ナツキ」とわたしを呼ぶ声がした。
 おじいさんは弾かれたように手を離し、一歩二歩と後ずさりをした。声がしたほうを振り向くと、母親が――お母さんが、ペットショップの戸口に佇んでいた。レジ袋を右手に提げて、緊張感に欠ける顔をこちらに向けている。買い物が終わったから迎えにきたのだ。

 金縛りは解けていた。おそらくは、お母さんの声を聞いた瞬間に。
 わたしはお母さんのもとへと走った。ねずみ色のおじいさんがどう行動したのかは、一顧だにしなかったので分からない。
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