こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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「いや……」

 いやいやいや、意味分かんねぇよ。お前、どこでなにしてんだよ。どういう状況なのか、ちゃんと説明してくれよ。お前は分かっているのかもしれないけど、俺は分からないんだよ。お前も実はあまり分かっていなくて、内心では混乱しているのかもしれないけど、俺は確実にお前以上に分かっていないから、説明してくれ。分からないと不安なんだよ。お前も不安なんだろうけど、頑張ってくれよ。頼むよ。
 通話を切ろうとする妻に、俺は懸命に食い下がった。軽いパニック状態に陥っていたので、具体的にどんな言葉をぶつけたのかまでは思い出せないが、大意としては以上で間違いない。

 妻は俺の必死さに呆れもしたし同情もしたが、一番多かったリアクションは、笑う、だった。心配性を笑い飛ばす。滑稽なまでの狼狽ぶりを明るく小馬鹿にする。二重の意味での笑いだ。
 あいつらしい態度といえば態度ではあったが、懸案である「分からない」が一向に解決しないので、こちらとしてはいらいらする。声を荒らげたいのは妻も同じかもしれない、という思いを頭の片隅に持ちながらも、感情を制御できない。恥ずべきことだが、汚い言葉も使ったし、人格を攻撃するような発言もした。
 それでも妻は、俺に対して感情的になることは一度もなかった。もともとあまり怒りを露わにしない性格ではあるが、状況の特殊性と、なおかつ俺の言葉遣いの下品さを客観視すると、よくぞ飄々とした態度を貫けたものだと感嘆を禁じ得ない。

 しかし、さすがの妻も圧力には抗いきれなかったらしく、やがて自らが置かれている状況について説明を始めた。
 もっとも、いくら傾聴しても、語られることの十分の一も呑み込めない。妻がいる世界の構造が複雑すぎるのか。妻の説明の仕方が下手なのか。俺に理解力がないのか。真相は今になっても謎だし、永遠に謎のままだろう。

「そういうわけだから、じゃあねー」
 やがて妻は、夫のしつこさに愛想を尽かしたかのように通話を切った。

「じゃあねー」と告げられてから通話が切られる瞬間までの間は、妻の楽天的な振る舞いに対する憤りの念が胸を支配していた。しかしいざ接続が切れると、胸中の炎は手品のように消滅し、放心状態が取って代わった。三度目の呆然自失というわけだ。
 その状態が終焉を迎えるまでの時間は、それなりに長かったように思う。もっとも、我を取り戻してからは、情緒不安定になることもなく過ごせた。二人が一人になったのだから、普段通りに振る舞うことによって様々な躓きが生じたはずだ。そのたびにまごついたり、舌打ちをしたり、途方に暮れたりしたと思うのだが、ネガティブな記憶は一切残っていない。

 その日はもう一度だけ、妻から電話があった。窓外に見える空が茜色に染まり、本日の夕食を意識し始めた時間帯のことだ。短かったので、発言内容は一言一句正確に覚えている。

「残りもののフライ、アルミホイルを敷いてオーブントースターで温めてね。電子レンジで温めるとべちゃってなるから」

 妻はそのいい加減な性格に反して、食事に関してはこまやかな気配りを見せることが多々ある。俺が美術館へ行くことが決まった翌々日、弁当を作りたいと言ってきたことがまさにそうだ。料理は一応俺も作れるから、食事のことだけはちゃんと面倒を見てあげないと、という義務感があるわけではないはずだ。一日に三回訪れるイベントで、妻自身も楽しみの一つにしているから、注意が向きやすいのかもしれない。

 その後も不定期に妻から電話がかかってきて、そのたびに俺たちは会話を交わした。その結果、明らかになった事実は三つ。
 一つ。妻は「あちらの世界」と呼ばれる世界で暮らしている。
 一つ。生活はかなり快適で、ストレスは全く感じていない。
 一つ。妻は超能力を行使して、俺がいる世界、即ち「こちらの世界」に干渉を及ぼせる。

 しかし、あちらの世界が具体的にどのような場所なのかは、何度尋ねても曖昧なままだ。妻の説明能力や俺の理解力に問題があるというよりも、妻が意図的にはぐらかしていると感じる場合が多かった。どうやらあちらの世界には、あちらの世界の詳細をこちらの世界の住人に妄りに教えてはならない、というルールが定められているらしい。

 やがて、問い質しても時間の無駄だと悟り、あちらの世界に関する謎全般に関する追及を打ち切った。俺たちの非現実的な夫婦生活は、俺の気のせいでなければ、それを境に安定した。

 住む世界が別々になってしまったけど、妻も元気にやっているようだし、まあいいか。
 俺は我ながらあっさりと、妻との極めて特殊な関係を受け入れたのだった。
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