こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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 起床してすぐ、ヘッドボードのスマホを確認したさいに、名状しがたい違和感を覚えた。
 違和感を覚えはしたが、己が毒虫に変身しているわけではなかったので、放っておいて着替えを済ませる。朝食をとるために一階に下り、キッチンまで歩を進めてダイニングテーブルの方を振り向いて、世界は一瞬停止する。
 弁当の包みが置かれていないのだ。

 目覚めた直後、スマホを見て違和感を覚えたことを思い出した。置かれているはずの弁当が置かれていない謎は、スマホを見ればたちどころに解消される気がする。
 しかし、求めているものは手元にはない。舌打ちをし、いらいらした気持ちで寝室に引き返す。
 ラグビーボール型のクッションを部屋の隅へと蹴り飛ばし、ヘッドボードに置かれたスマホを手にとる。ディスプレイに表示された本日の日付を見た瞬間、俺は理解する。弁当が用意されていなかった理由も、目覚めた直後に携帯電話を見て違和感を覚えた理由も。

 四月二十八日。

「戻ってやがる」
 また舌打ちが出た。

 妻は様々な超能力を行使できるが、その一つに、時を巻き戻すことがある。累計十回くらいこの能力が使われたが、最長だと三日、最短だと二時間半、時間が過去に戻った。それ以上の時間を戻すことが可能なのかは、なんとも言えない。超能力に関する質問をぶつけたことは何度もあるが、望んでいる答えが返ってきたことは一度もない。
 手料理を作ってくれるのは、ろくな料理を作れない立場からすればありがたい。こちらの意思を無視して通話を切られるのは腹が立つが、時間が経てば怒りは治まるし、異なる世界で暮らしているにもかかわらずコミュニケーションがとれるのは祝福するべきことだ、という認識はある。
 しかし、時間を巻き戻すのは話が別だ。時が戻ったことには、俺と妻以外の人間は気づけない仕様になっている。そして、その効果が適用されるのはこちらの世界だけで、あちらの世界は完全なる無風。要するに、俺一人だけが同じ時間を再び経験しなければならない。
 その事実を噛みしめるたびに、腹の底から憤りが込み上げてくる。限りある人生を無駄にしているような気がするから、ではない。俺一人だけ。それが気に食わない。

 煮えたぎるような感情の矛先は、いつだって、状況がどうであれ、予告もなく力を行使した妻へと向かう。

 天真爛漫にして独善的な妻は、超常的な力を使用する場合でも、事前に夫に報告することはない。
 唯一の例外は、俺のために料理を作るときだが、その場合でも、事前に告知される割合はせいぜい半分程度。それに、俺が出したリクエストに応じて作ってくれるわけではない。コンビニエンスストアで夕食を買って帰ってくると、ダイニングテーブルの上に食べきれないほどの料理が用意されている。あとになって問い質すと、悪びれもせずにただ一言、「気が向いたから作った」。そんな体験をこの二年間で何度しただろう。
 なおのこと腹立たしいのは、なぜ時を戻したのか問い質そうにも、こちらから妻にコンタクトをとる方法はない、ということだ。

「なんなんだよ、あいつ。意味分かんねぇわ、マジで……」
 ぶつくさ言いながら一階に下りる。食パンをトースターにセットし、ポットの湯を沸かしてコーヒーの準備をする。パターン化した作業を黙々とこなしていくうちに、ささくれ立った心は次第に滑らかになっていく。

 郵便受けから地方紙の朝刊を回収し、キッチンに引き返しながら一面に目を通す。高齢者が運転する車が歩行者に突っ込み、六名が死傷。食料品の値上がりが家計を直撃。脚の怪我で出遅れていた日本人メジャーリーガー、復帰後初となる試合でヒット一本。どれもこれもくだらない。
 しかし、心を鎮めるためには、このくだらなさがもってこいだ。妻があちらの世界へ行って、もう二年。ままならない事態に直面したさいの対処法は熟知しているつもりだ。
 トースターが食パンの焼き上がりを報せる音を鳴らしたときには、精神状態はほぼ平常に復していた。

 朝食をとるに先立って、定めた方針は二つ。
 一つ。余計なストレスを溜め込まないために、あいつのことはあまり考えないようにしよう。
 一つ。あいつからの連絡を逃さないように、スマホは肌身離さず持っておこう。
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