こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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 ジャムを取り出そうと冷蔵庫を開けた瞬間、昨夜の記憶が甦った。
 俺が冷蔵庫に卵が一個もないと事実を告げると、妻は何秒間か絶句していた。そして、通話を切った。
 まさか、それが超能力を行使した理由なのか?
 四時間ぶりくらいに卵ケースを開けてみる。分かり切っていたことだが、卵は一個もない。

 いつも思うのだが、時間を巻き戻す以外の能力を活用して、目先の小さな問題を解決しようとしないのはなぜなのだろう? 卵なんて、わざわざ俺に買いに行かせなくても、力を使って手元に出現させればいいのに。
 そして、やはり電話。一方通行ではなく、俺の方からもかけられるようにした方が、絶対に便利なのに。

 新聞を読みながら朝食をとる。読者投稿欄は今日も、十年後には死んでいるか寝たきりになっているかするような高齢者の投稿ばかりだ。身辺雑記的な、毒にも薬にもならない内容はまだ微笑ましいが、社会問題に噛みついているものには苦笑を通り越して苦い顔になってしまう。なにに文句をつけようが個人の自由だが、噛みつき方にピントがずれたものが多く、知識の浅さと偏見が鼻につく。LGBTなどのセンシティブな問題に関しては、特に酷い。無価値な骨董品のような私見のオンパレードで、金を払わないと読めない読み物にこんな文章が載っているのかと、憤りに近い感情さえ覚える。

「くだらない」
 ページをめくる手を早め、四コマ漫画を一コマ一秒で読んで新聞を畳んだ。

 新聞はテレビ欄と四コマ漫画だけしか見ないと、あたかも自慢するかのように豪語する人間が世の中にはいる。妻もその一人だった。妻も含め、その手の人間を俺は散々馬鹿にしてきたが、歳を重ねれば重ねるほど、新聞を読まない派の心情に共感できるようになってきた。

『おいおい、記者さんよ。事実を切り貼りしてもいいのは芸術家だけじゃなかったのかい?』

 俺が新聞というメディアを見下すさいの決まり文句はそれだったが、妻があちらの世界へ行ってしまったのを機に、文言は一新された。

『なんだかんだ偉そうなことを言っても、あんたらは俺の妻を観測できないじゃないか』


* * *


 妻は、時間の逆行を含めて、俺以外の大多数の人間に影響が及ぶ類の超常現象を行使したことが、二年間で二十回近くある。
 しかし、世界のどこかでパニックが起きたという話は、これまでのところ一度も見聞きしたことがない。妻はただ非現実的な事象を引き起こすだけではなく、人々に「非現実的な事象が発生した」と自覚させない能力を併せ持っているらしい。
 その自覚させない効果は、コンビニ弁当に必ず漬物が少量ついているように、超常現象と不可分なものなのか。コンビニ弁当を温めるか否かを選べるように、行使する側が付加するか否かの判断を下せるものなのか。
 真相は定かではないが、妻が世界の秩序を保とうという良識や理性を持っているのは確かだと言えるだろう。

 唯一その効果が適用されないのが、この俺だ。周りの人間とは違い、超常現象が起きれば「超常現象が起きた」と気がつく。妻の仕業だと悟る。今回、時間が巻き戻された件でもそうだった。

 妻は無邪気な女だ。よくも悪くも子供のような性格だ。こちらの世界で暮らしていたときも、あちらの世界へ行ってしまってからも。妻が能力を行使する理由は、俺を困らせたいからではなく、ただ単に便利だから。それは百も承知だ。

 ただ、加害者側に悪意がないのだとしても、俺が迷惑をこうむっているのは紛れもない事実。予告もなく非現実が現実と化すから、慌てるし、混乱するし、不安になる。現象の影響を受けるのは俺だけだから、「なんで俺だけがこんな目に」という不満と憤りを覚える。
 さらに言えば、妻は己の非を決して認めようとしない。いくら超常的な力の濫用を非難したところで、馬耳東風、俺一人が余分なストレスを溜め込む結果に終わる。
 そして、恐らくは今回も。

 こんな生活がいつまで続くんだ?
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