こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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 こんな生活がいつまでも続けばいい。
 妻があちらの世界へ行く前ならば、そう思ったことは数え切れないくらいある。
 あまりにも多すぎて、全てを覚えているわけではないが、覚えている記憶を一通り並べてみたことはある。それを端から端までざっと眺めてみて、分かったことが一つ。どうやら内容が馬鹿馬鹿しければ馬鹿馬鹿しいほど、鮮明な思い出として保存される傾向があるらしい。
 朝食を終え、自室でくつろいでいる最中にふと思い出したその記憶は、馬鹿馬鹿しさという意味では、総合順位は決して低くはないはずだ。

 なんのメッセージもなく外出し、外出中に二度連絡しても応答がなかった妻が帰ってきた。施錠していたはずの玄関ドアが開き、小学生のように元気な「ただいまー」という声が聞こえたので、そうだと分かった。

「ちょっと、龍くん! 見てよ、見て見て見て!」

 腹筋をするように上体を起こして声の方を見やったのは、妻がまとっている匂いが、朝とは明確に異なっていたからだ。たとえ呼びかけられなかったとしても、なんらかの作業に熱中していたとしても、妻に注目していただろう。そう思わせるほど、朝と今とでは発信される情報に差があった。
 この世のものとも思えないほどかぐわしいだとか、今までに嗅いだことがない匂いだとかいった、分かりやすい特殊性を感じたわけではない。いつもの妻の匂いとは、明らかになにかが違う。その一点が俺の意識を吸引した。
 廊下とリビングの境界に佇んだ妻は、髪の毛を坊主頭に限りなく近いベリーショートにして、黄緑色に染めていた。

「どうしたんだよ、その髪。思い切ったなぁ」

 腹の底から驚いたので、思いがそっくりそのまま言葉に変換された。
 出かける前の妻のヘアスタイルは、耳が隠れる長さの髪を明るい茶色に染めた、というもの。気紛れで伸ばしたり、黒髪に戻したりすることもあるが、たいていは一か月もすると元通りになった。奔放で果敢な性格とは裏腹に、髪型や髪色で冒険をすることがまずない妻からすれば、貝殻ビキニ姿でチョモランマ踏破に臨んだに等しい。

「でしょ? ちょっと短くしすぎて、スースーして落ち着かないけど。ノーパンでスカートを穿く的な」
「どっちかって言うと色じゃね? 思い切ったのは。そんなメロンみたいな」
「紫とピンクも候補だったんだけどね、紫はおばちゃん感があるかなと思ったから除外して、ピンクと一騎打ちになったの。でも、ピンクって若い子のイメージだから、ちょっと違うかなー、と思って。どう? 似合うかな?」
「似合う、似合う。すげぇ似合うよ。なんて言うか、明日から輝かしい日常が過ごせますって感じだよな。上手く言えないんだけど、すっげぇポジティブな気分になった」
「輝かしい日常って、わたしにとって? 龍くんにとって?」
「両方だよ」

 妻は子供っぽく破顔し、やったー、とばかりに両の握り拳を斜め上に突き出した。その無邪気なリアクションがかわいくて、相手チームの選手のスライディングに転ばされたが、すぐさま体勢を立て直してボールを追うサッカー選手じみた素早さでソファから跳ね起き、黄緑色の短髪をくしゃくしゃっと乱す。

「うわー、フケが飛ぶー。やめてー」

 嫌がる素振りを見せながらも、表情と声音は満更でもなさそうだ。頭髪を乱したことによって拡散された香りの心地よさも相俟って、かわいいと思う気持ちは愛おしさへと変じた。問答無用で妻を抱きしめ、ブルージーンズに包まれた尻をぐっと掴み、ぐわわわっと揺さぶってから体を離す。目が合い、だらしない笑みを交わす。
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