こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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「気分がよくなったところで、飯食わない? 悪いけど、作ってよ。ほら、得意の神速クッキングで」
「残念ながら駄目でーす。今日はもう力を使い果たしたので、日付が変わるまでなにもしないのです」

 弛緩した声でそう応じて、チャコールグレイのカーペットの上に崩れ落ちる。気を失ったかのような倒れ方だったので狼狽してしまったが、妻はすぐさま仰向けになって大きく伸びをした。背中を弓なりに反らしたので、キャミソールの胸元からFカップの胸が今にもこぼれそうだ。

「無理に作ってもらおうとは思っていないよ。俺も作りたい気分じゃないから、カップ麺になるけど、構わない?」
「構わないっていうか、ごはん自体いらない」
「外出したのに減ってないとか、マジかよ」
「違うよー。今日は日付が変わるまでなにもしないって言ったでしょ。だから、お腹ぺこぺこでも食事はしないのです」
「なんじゃそりゃ」

 キッチンへ行ってポットの湯を沸かす。シンクの横には、背が低いプラスチック製の棚が置かれている。
 北海道産のじゃがいも。買い置きのミネラルウォーター。回収日まだまだ先なので一時的に置いてある、空のカセットボンベ。
 雑多な品々が収納された棚の中段、小さめのダンボール箱に満載されたインスタント麺を漁る。買い足したばかり、無闇やたらに充実したラインナップの中から、少し迷って天ぷら蕎麦を選ぶ。

 ほどなく湯が沸いた。包装フィルムを破って粉末スープの袋を取り出していると、妻が起き上がる気配。なんだ、腹減ってんじゃん。
 まず自分の分に湯を注いで、妻の分を選び始めたところで、妻は俺の背後を通ってキッチンへ。
 妻は天ぷら蕎麦の容器を手にすると、「ていっ!」というかけ声とともに中身をシンクにぶちまけた。

「あー! お前、なにを……」
「龍くんもなにもしちゃ駄目なの! 食事禁止!」

 憤慨したように言って、俺には目もくれずに再度背後を通過、ふて腐れたように再びカーペットの上に寝ころがる。
 シンクを覗き込むと、固まったままの蕎麦と天ぷらが凝然と鎮座している。かやくは湯ごと流されてしまった。台無しだ。

「……ったく。なにやってんだよ、お前は」

 リビングへと引き返すと、右半身を下にして横になっている。不機嫌そうに唇を尖らせていたが、表情はどこか演技がかっていて、本気で怒っているわけではないのは一目瞭然だ。
 俺も床に寝そべり、妻の背後にぴったりと寄り添う。空腹に苛まれている最中に食事を邪魔されたというのに、ネガティブな感情は全く湧かない。むしろ、妻がいとおしかった。

「おい、おてんば娘。食べ物を粗末にしちゃ駄目だって、親から教えてもらわなかったのか?」
 返事はない。その沈黙こそ、合意のサインだと俺は解釈する。うなじに軽く口づけをし、耳元にささやきかける。

「悪い子にはおしおきだ。覚悟しろ」
 くすぐったかったらしく、微かに笑いが混じった吐息がこぼれた。キャミソールの胸元から左手を侵入させる。日常的に堪能している感触を五指と掌に感じ、それから先は、互いに馬鹿になって戯れ合った。
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