こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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 また時間を巻き戻されては敵わないので、俺は卵を買いに行くために家を出た。午前十時半のことだ。
 いや、正直に言おう。卵も理由の一つだが、同率一位となるもう一つの理由がある。
 暇なのだ。

 今日は三連休の中日。最終日に予定している米津国際美術館行きを除けば、悲しいかな、スケジュール帳は見事に空白だ。
 その美術館だって、妻が一週間前に急遽要望するまでは、行くつもりはなかった。世間的には有名な美術館らしいが、俺は美術というものに関心がないので、妻が話題に出すまで存在すら失念していた。
 俺は生来の無趣味が祟って、妻がこの世界からいなくなって以来、怠惰な方法でしか余暇を潰せなくなっていた。だから、本来ならば妻には感謝しなければならないのだが、それにしても美術館か、という思いは正直あった。いくら世界的に有名な美術品が展示されていようとも、興味がない人間にとってはただの紙切れやガラクタだ。

 訪れるのに気乗りがしない理由はもう一つある。口コミサイトによると、ナントカという、若者の間で人気らしい男性ミュージシャンが、昨年末にその美術館でライブを行った影響で、来館者が激増し、美術館方面へ向かう公共交通機関が慢性的に混雑しているらしいのだ。
 窮屈さと人いきれに眉をひそめ、吊革に掴まって揺れに耐え、行きたくもない美術館を目指す――想像するだけでうんざりする。
 行きたいか行きたくないかで言えば、圧倒的に後者だが、こちらに拒否権はない。不承不承ながらも美術館行きに同意した時点で、俺の敗北は確定していた。

 本日の空は晴れているとも曇っているともつかない、中途半端な様相を呈している。卵以外になにを買っておくべきか、取り留めなく考えながら歩いていると、

「新原さん」
 出し抜けに後方から声をかけられた。

 振り向くと、榊さんが歩道の真ん中に佇んでいた。その顔に浮かんでいるのは、彼女らしいにこやかな笑み。右手に提げたハンドバッグは、ブランドものの高級品だろうか。初夏らしい涼しげな服装に身を包んでいて、若々しい容貌にとても似合っている。
 一回目の四月二十八日に、俺は食料品の買い出しには行かなかった。従って、彼女とは顔を合わせていない。自らの意志で違う未来を選ぶと、磁石のように別の未来を引き寄せる。これまでにも何度か経験したことだが、経験するたびに、畏敬の念にも似た厳粛な感慨に魂が微震する。

 榊さんと遭遇した場合、まとまった時間を無償で提供することを覚悟しなければならない。妻が隣にいたならば、妻が自ら聞き役を買って出てくれるのだが、今は俺一人。一人だったとしても、買い物を終えて帰っている最中だったならば、食品を冷蔵冷凍しなければならないという大義名分を掲げられたのだが、残念ながら手ぶらだ。ぱたぱたと小走りに駆け寄ってくる榊さんの到着を、その場に佇んで待ち受ける。

「新原さん、おはようございます」
「おはようございます」
 自宅が近所の人間に対する朝の挨拶にしては、いささか丁寧すぎるお辞儀に釣られて、こちらも深く頭を下げる。いつものように榊さんから口火を切る。

「今日はちょっと雲が多いですね。降水確率は零パーセントという予報でしたけど。新原さんはこれからどちらへ?」
「近所のスーパーまで。料理に使う食材が足りなかったので」
 この返答に対して榊さんは、クイズ番組の司会者が明かした意外な正解に感心するように何度も頷きながら、

「ああ、そうですね。奥さんがいらっしゃらないと、食事の方が大変ですよね」

 俺にある程度近しい人間は、俺の妻が現在俺の自宅にいないことは承知している。ただし、この世界から消えた、ではなく、緊急の用事のために実家に帰っている、と認識していた。より詳細に言うと、実家に帰って今日で三日目だと思い込んでいる。俺がそう説明したわけではなく、超能力の効果らしい。その証拠に、消えた当日も、消えてから二年が経とうとしている現在も、俺以外の人間は「新原龍之介の奥さんは、緊急の用事があって実家に帰省していて、今日で三日目になる」と思い込んでいる。
 二年間も戻ってこない緊急の用事って、なんだよ。そう突っ込みを入れたくなるが、そういうことになっているのだから仕方ない。

「ですね。まだ三日目ですけど、それは痛感しています」
 だから、俺もそのつもりで話を合わせている。面倒くさいと思うこともあるが、己が身を置く世界の秩序を保つのも大事だ。自分本位に超常的な力を行使して世界を小規模に弄び、俺に迷惑をかけ続ける妻でさえ、その意思を持っている。人間は、基本的には理性的に振る舞おうとする生き物なのだろう。
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