こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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 その思い出を突如として思い出したのは、買うべき商品である卵と、スーパーマーケットの店内を支配する人工的な冷気のせいだろう。俺たちはあのとき、昼食に卵料理を食べ、部屋は冷房がきいていた。

「なんかさ、食べたあとって体が熱くなるよね。絶対に体内でエルニーニョ現象起きてるよ。あっつぅ」
 うんざりしたように妻は言って、黒一色のTシャツの裾に両手をかける。本日の食器洗い係である俺は、スポンジを掴んだ右手を虚空に停止させ、妻を凝視する。裾が一気に鎖骨まで引き上げられ、二つの果実が瑞々しく震えながら現れた。案の定ノーブラだ。

「ふいー」
 外回りから帰ってきて、エアコンの冷気にあたったオッサンのような声が、妻の口から発せられた。剥き出しの豊かな胸は、見慣れているが故に鼓動の速さに変化は生じないが、ついつい見入ってしまう。
 汗ばんだ乳房の下部へと、片手で虚空を扇いで送風し始めた妻から視線を切り、皿洗いを再開する。

 本日の昼食のメインは、具だくさんのオープンオムレツ。作ったのは妻で、使用された食材は、じゃがいも、にんじん、ピーマン、たまねぎ、枝豆、ベーコン、チーズ、以上七種類。先に具材を炒めて、それを卵液に混ぜ込んで焼く、という手順で作られた。仮に俺が同じ料理に挑戦していたとしたら、じゃがいもに中まで火が通っていない、などという初歩的な失敗を犯していたかもしれない。

 汚れをスポンジで落とし、いざ洗い流そうという段になって、怪しげな物音がリビングから聞こえてきた。肩越しに様子を窺うと、妻が工作をしていた。紫外線でボロボロになった洗濯バサミ。新聞を縛るのに使うビニール紐。材質不明の、長さ五十センチくらいの細い棒。今にも鼻歌を歌い出しそうな横顔だ。

「なにやってんの、乳丸出しで」
「どこ見てるの。えっち」
 裸の上半身を隠そうとするでもなく、どこか不器用に手を動かしながらの返答だ。棒にビニール紐を結びつけようとしている。

「裸で作業するの、やめてくれないかな。凄く野蛮な感じがするぜ。ここが二十一世紀の文明国ってこと、分かってる?」
「だって、暑いんだもーん」
「ていうか、なに作ってんの? その棒はなんなんだ」
「棒はアサガオの支柱に使っていたやつで、作っているのは猫用の釣竿だよ。よいしょっと」
 紐を棒の先端にきゅっと結び、にこやかに俺に笑いかける。

 曰く、猫用の釣竿とは、その名の通り猫を釣るための道具。洗濯バサミにエサを挟み、猫に向かって投げ、エサに食いついたところで紐を引っ張って捕獲するのだという。野良猫は警戒心が強くてまず釣れないので、放し飼いにされている飼い猫や、野良猫の中でも、日常的に人間からエサを貰っている個体が狙い目なのだそうだ。

「というわけで、行こう、象さん公園。あそこなら猫、いっぱいいるから。たまに野良犬もいるから、犬釣りができるかもね」
「昼間から? 嫌だよ、暑いし。最高気温、三十五度とか言ってなかったっけ」
「行こうよー。思い立ったらナントカって言うでしょ」
「吉日だよ。一番簡単な諺じゃん。そのボケ、わざとかよ」
「一番じゃないよー。一番は、あれだよ。犬も歩けば電柱に当たる」
「当たるか。電柱じゃなくて棒だよ、棒。犬はそんなにアホじゃねぇ」
「じゃあ、なんで棒なんかに当たるの?」
「それは、あれだ。細いから、その分見えにくくて、油断するんだよ」

 くだらないやりとりを続けている間に食器は洗い終わり、猫を釣るための釣竿は完成した。エサを固定するのに相応しい道具は洗濯バサミ以外にもある気がするし、紐の結び方が雑なので少し力が加わっただけで外れそうだし、釣竿にしては柄が短すぎる。小学生の夏休みの工作以下、見ているだけで恥ずかしくなってくるクオリティだ。
 しかしながら、妻を諦めさせる言葉は見つけられず、不本意ながらも公園行きに同行する羽目になった。
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