こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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「暑いなぁ。一日で一番暑い時間帯に、なに馬鹿なことやってんだろうな」
「ほんとだねー。馬鹿みたいだよね」
「いや、お前だから。公園に行こうって言い出したの、お前だからね」
「それとこれとは別物だよ。まあ、火星よりもマシだと思って耐えるしかないね」
「火星って本当に暑いのか? 火っていう漢字が使われているから、勝手にそうイメージしているだけじゃないの」
「えっ、ほんとに? 凄い! さすがは宇宙博士!」
「いや、実際どうなのかは知らないけど」

 家にいたときから引き続き、世にもくだらない会話を交わしながらの歩行となる。妻は釣竿、もとい先端に紐が付属した珍妙な棒を携帯しているので、道行く人々からことごとく奇異な目で見られている。その事実から意識を背けるために、歩くことさえ億劫な酷暑の中でも熱心に喋っているのだ、という気もする。
 妻は現在ノーブラだが、シャツの黒さが、見えてはならない部分が透けるのを阻止している。注目されている原因はそれではないはずだ。

 夏は下着をつけると暑苦しい。それだけの理由で、ブラジャーもつけずに、白地のTシャツ一枚で平気で外出する女、それが俺の妻だ。羞恥の念を覚えるセンサーの性能が常人よりもいくらか悪い、ということなのだろう。入浴後に全裸でうろうろする。下着姿で朝食を食べる。寝間着姿でも平気で宅配物を受け取りに玄関へと赴く。どれも同棲してみて初めて明らかになった生態だ。

 上半身に下着をつける必要がない性別の人間の一人として、夏場に感じる苦痛には同情する。苦痛を我慢してまで下着はつけなくてもいいから、ノーブラだと一見してばれないような恰好で外に出てくれ。あと、パンツは絶対にちゃんと穿くように。そう俺の方から強く要請している。
 理由はただ一つ、俺が嫉妬するからだ。
 下着をつけてないからって、じろじろ見るんじゃねぇ。この女は俺の嫁さんだぜ。妻は夫の所有物じゃないが、お前の目を楽しませるためのツールでもねぇ。この女のノーブラの乳を拝む権利を持つのは、この世界でただ一人、俺だけだ。
 嫉妬という感情を表に出すと、醜い、浅ましい、狭量だ、といったネガティブな印象を自他に与えるものだ。しかし、幸いにも妻はある種の好感を抱いてくれているようで、今のところ方針を遵守してくれている。

 赤信号に歩行の停止を余儀なくされる。口からひとりでに溜息がこぼれた。公園は、気軽に足を運ぶにしては少し遠い。放っておいても勝手に肌を伝う汗の感触が得も言われず不愉快で、うんざりする。しかし、口に出すと雰囲気が悪くなりそうだから、無駄口は叩かない。

 自転車の走行音が後方から聞こえてきた。数秒後には甲高いブレーキ音が響き、俺の真横に停車した。
 いかにも子供向けといったフォルムの自転車に跨っているのは、小学校低学年と見受けられる男児。七分丈の、パンツではなくズボンと呼びたくなるようなパンツに、半袖のTシャツという、このくらいの年齢の男の子はみんな夏場はこんな恰好をしているよね、という出で立ちだ。俺を通り越して、妻をじっと見つめている。注目の対象は釣竿らしい。
 横断歩道を渡った先、マッサージ店の看板を見ていた妻は、視線を感じたのか、マッサージ店に対するなんらかの意見を俺に向かって述べたくなったのか、俺の方を向いた。視線は俺を通り越し、男児を発見する。気さくで子供好きのお姉さん、といった笑みが顔に灯る。

「君、お目が高いね。この釣竿ね、わたしが作ったの。一から手作り。凄いでしょ。見た目からして、もう、ねえ?」
「どこまで釣りに行くの」
 この界隈に川や海はない。子供は遊びに関してはプロフェッショナルだから、当然その事実は把握している。男児は至極まっとうな言葉を返したといえよう。

「公園に行くの。知ってる? この道をずっと真っ直ぐにいったら左ある、象さんの滑り台があるところ」
 こくり、という擬音が相応しい頷き方を男児はして、
「でも、あそこに池はないよ」

「そうだね。でもね、トイレの水に釣り糸を垂らしたらたまに釣れることがあるの。トイレといっても全然汚くないよー。変なところに住んでいるだけあって変な形な魚だけどね、欠点はそれくらい。トゲトゲがいっぱいついていて、パッと見危なそうな感じだけど、性質は穏やかだし」
「大きさは?」
「便器の奥に水が吸い込まれる穴、あるよね。あれを通るくらいだよ」

 身も蓋もないといえば身も蓋もない回答だが、男児は感情を表にすることなく頷いた。彼の脳内では、どんな色と形の魚がイメージされているのだろう。
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