こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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「釣ったら必ずリリースするようにしているから、毎回同じ個体を釣り上げているのかもね。でも、釣り上げるたびに姿が微妙にリニューアルされているから、生き物って成長するんだなって思う。人間もそうだよね。わたし、君のお母さんでもおかしくない年齢だけど、まだ成長してるもん。日々成長。大人になったらストップすると普通思うでしょ? わたしも、君くらいの年齢のころはそう思ってた。でも、違うんだよね。凄いよね、人間。もちろん、生き物も」

 ふぅん、という顔を男児はした。納得してはいないが、誠意をもって解説してくれたことは理解しましたよ、というような。
 その顔が、不意に前を向いた。動きに釣り込まれて同じ方向を向くと、歩行者信号はいつの間にか青に変わっている。
 男児は自転車を漕ぎ出した。俺と妻は目配せをし、横断を開始する。白線の連続の半ばに達したころには、先を行く男児はグリンピースほどの大きさになっていて、渡り切ったときには消失している。

「子供、かわいいねー。わたしたちも欲しいねー、子供」
 男児と話をしている最中と同じ笑顔で、妻が同意を求めてくる。

「そうか? なにかと面倒くさそうだし、魅力は感じないけどな」
「わたしは感じる。今すぐ家族の一員にしたいって感じでもないけど、なんかいいよね、子供って」
「……ああ、そういう意味か」

 俺たちは子作りには積極的ではなかった。互いに、子供を作る必要性を感じていないからだ。たまに避妊具なしでセックスをすることもあるが、あれはその場の気分と危機意識の欠如がなせる業であって、子供欲しさにやっているわけではない。

「もし子供ができたら、名前はどうする? わたし、外国人みたいなのがいいな。男の子なら、たとえばアレックスとか」
「どんな漢字を宛てるんだ」
「それは漢字博士が考えてよ」
「誰が漢字博士だ」
 今すぐに子供がほしいわけではない者同士、会話はさほど盛り上がらないまま目的地に到着した。

 予想通り、公園は無人だ。ブランコ、シーソー、公衆トイレ。中央にあるのは、俗称の由来となった、象を象った滑り台。塗装が剥げ、耳の線や目の点などは全て消失しているので、首を下げて地面に生えた草を食べている草食恐竜に見えなくもない。
 一度その感想を妻に話して、「いや、象さんにしか見えない」と頑なに否定されたことがある。「象さん公園」が「草食恐竜公園」という呼称になれば語感が悪くなる、というのが妻の主張だった。
 俺の目にはそう見えるだけだ、呼び方まで変えるつもりはないし、変えろと強制するつもりない。そうちゃんと説明したのだが、「草食恐竜じゃなくて象さんだから」と妻は言い続け、最終的にはこちらが発言を撤回した。面倒くさいやつなのだ、妻は。

「誰もいないな。猫もいないだろ、この暑さだと」
「匂いに釣られて現れるから、大丈夫、大丈夫。エサの準備を――」
 妻は急に言葉を切ったかと思うと、双眸を見開いた。
 その表情の変化を見て、俺は重大な見落としに気がついた。いや、妻が念頭に浮かべた思いを読み取った、というべきか。

『エサを持ってくるの忘れた……!』
 俺たちは見つめ合い、相手を指差し合って、全く同じセリフを全く同時に口走った。
 互いに体勢を維持したまま何秒かが経過し、どちらからともなく吹き出したことで均衡が崩れる。無人の公園の出入口で、二つの笑い声が重なった。

「いやー、けっさく! まさか、肝心のエサを忘れるなんてねぇ」
「このまま帰るのもなんだから、遊んで帰るか。ほら、あそこで」
 俺は公衆トイレを指差した。きょとんとした表情を見せた妻に、爽やかににやつく、といった笑い方で微笑みかける。

「セックスしよう。外でしたことって、今まで一度もなかったよな」
「えっ、本気なの?」
「うん、本気。どうせ誰も来ないだろうし。人も猫も野良犬も」
「そっかー、お外でエッチかー。上手く活用したいよね。猫ちゃん用釣竿を」
「SMプレイか。でもお前、マゾだったっけ」
「虐げられるのは龍くんの方だよ」
「まっぴらごめんだね」
 妻の肩を抱き、公衆トイレへと向かう。

 結局、悪臭のきつさに辟易し、足を踏み入れて十秒で退散したのだが、それでも、当時の思い出は印象的なものとして記憶に残っている。
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