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せっかく新鮮な鶏卵を買ったのだから、昼食には卵を使った料理を作って食べたい。二個使ったとしても八個余るのだから、作らない理由はない。コレステロールの問題については、このさい無視することにする。
オムレツを食べた日のことを思い出した縁で、オムレツを作ろうと思ったが、卵をボウルに入れてかき混ぜなくてはいけないから、器を一個余分に洗わなければならなくなる。卵料理の定番である卵焼きも同上だ。その点、目玉焼きは卵をフライパンに直に投入すればいいのでその心配はないが、俺の中でその料理は、昼食ではなく朝食に食べるイメージだ。
ごく短い思案を経て、第四の選択肢であるスクランブルエッグを作ることに決めた。卵をボウルで溶いてからフライパンで火を通すのではなく、直接フライパンにぶち込んでかき混ぜるという、手抜き方式を採用すればさらに手間が省ける。
鶏卵を二つパックから出し、コンロ下の収納スペースからサラダ油のボトルを取り出したところで、チノパンのポケットの中でスマホがバイブした。ディスプレイにはなにも表示されていない。耳に宛がって「もしもし」と言う。
「あっ、龍くん。なんか暇そうだねー」
妻からだ。
「よく分かんないけど、なんかね、凄くそんな感じがした。ナイスタイミングだったんじゃない?」
「暇じゃないよ。見ての通り、料理中だ」
「ああ、そうなんだ。なにを作ってるの?」
「スクランブルエッグ。簡単だから」
「あ、卵買ってくれたんだ」
「俺の弁当を作るのに必要みたいだったから、買ってきたんだよ。買ってなかったくらいで、なにも時間を巻き戻さなくてもいいと思うけどな」
「でも、そういうのもたまには必要じゃない。彩り? アクセント? んー、もうちょっと軽いニュアンスなんだけど」
「軽い気持ちで時を戻すなよ」
「違うよー。軽いのは気持ちじゃなくて、ニュアンスの方だってば」
意味不明な弁明だが、己に不都合ななんらかの事実を隠そうとしているがために支離滅裂になっている、というふうではない。要するに、いつも通りに意味不明。妻はこちらの世界で生きているときから、天然というか、いい加減というか、そういう一面を持っていたが、あちらの世界に行ってもそれは健在だ。
「明日は美術館だから、今度こそ弁当頼むぜ。楽しみにしてるから」
「任せておいて。絶対に美味しいやつを作るから。龍くんの好きなおかずばかり入れて、ごはんには最低二種類ふりかけをかけて」
「ところで、俺になんの用?」
「えっ。なんでそんなこと訊くの?」
「暇かって訊いただろ。どう考えても、俺になにか用がある人間のセリフじゃないか」
「あー、うん。暇だから、龍くんになにかお話してほしいなって」
「話? 俺が? お前が俺に話があるんじゃなくて、それが用ってこと?」
「うん、そう。女の子は受け身だから。するよりしてほしいの」
「お前なあ。女の子って言っても、今年で三十だろ」
「そこは突っ込まなくてもいいよー。急に言われても、ネタがない?」
「ネタのあるなしじゃなくてさ、こっちは昼飯作ってる最中なんだけど」
シンクとコンロの間のスペースには、二個の鶏卵、一揃いの菜箸、一枚の小皿が用意されている。スクランブルエッグならすぐに作れてすぐに食べられるのに、先延ばしにされているのだと思うと腹立たしいが、妻になにを言ってもどうせろくに聞きはしない。こちらから電話をかけることはできないのだから、この機会にしっかりと話をしておきたい、という気持ちもある。さらに言えば、死ぬほど空腹というわけではない。
「あっ、そうだったんだね。ごめん、ごめん」
「いや、一回言ったからね。スクランブルエッグを作ってるって、ちゃんと言ったぞ。確かに言った」
「でもわたし、今凄く暇なの。龍くんがわたしのためにお話してくれたら、死ぬほど嬉しいんだけどなー」
「本当に自由だよな、お前は」
勝手だよな、と言いそうになったが、咄嗟にポジティブな響きの単語を選択した。言葉の選び方一つで不機嫌になる女ではないが、そうだとしても、このくらいの配慮はするべきだ。それとも、榊さんの長話に嬉々として付き合った後ろめたさがそうさせるのだろうか。
「しゃーねーな。じゃあ、ちょっとだけなら話してもいいよ」
「楽しい話? 悲しい話?」
「んー、他愛もない話。買い物に行く途中で、榊さんにばったり会って立ち話をしたんだ。例によって長かったんだけど」
「あっ、そうなんだ」
榊さんの名前を出しても、声の調子や、伝わってくる空気に変化は生じない。こちらの世界での俺の行動は筒抜けだから、驚きはないということなのか。榊さんはお喋りが好きだから、顔見知りと話し込むことは普通、たとえそれがわたしの夫である龍くんだとしても、わたしはなんとも思いませんよ、ということなのか。
「榊さんがなにを話していたのかを話そうかな。話してくれた内容をそっくりそのまま伝える形になるけど、それでいいなら」
「うん、いいよ。ていうか、聞きたい! 榊さんとは最近全然話せてないもん」
そりゃそうだろう、と思ったが、口には出さないでおく。
オムレツを食べた日のことを思い出した縁で、オムレツを作ろうと思ったが、卵をボウルに入れてかき混ぜなくてはいけないから、器を一個余分に洗わなければならなくなる。卵料理の定番である卵焼きも同上だ。その点、目玉焼きは卵をフライパンに直に投入すればいいのでその心配はないが、俺の中でその料理は、昼食ではなく朝食に食べるイメージだ。
ごく短い思案を経て、第四の選択肢であるスクランブルエッグを作ることに決めた。卵をボウルで溶いてからフライパンで火を通すのではなく、直接フライパンにぶち込んでかき混ぜるという、手抜き方式を採用すればさらに手間が省ける。
鶏卵を二つパックから出し、コンロ下の収納スペースからサラダ油のボトルを取り出したところで、チノパンのポケットの中でスマホがバイブした。ディスプレイにはなにも表示されていない。耳に宛がって「もしもし」と言う。
「あっ、龍くん。なんか暇そうだねー」
妻からだ。
「よく分かんないけど、なんかね、凄くそんな感じがした。ナイスタイミングだったんじゃない?」
「暇じゃないよ。見ての通り、料理中だ」
「ああ、そうなんだ。なにを作ってるの?」
「スクランブルエッグ。簡単だから」
「あ、卵買ってくれたんだ」
「俺の弁当を作るのに必要みたいだったから、買ってきたんだよ。買ってなかったくらいで、なにも時間を巻き戻さなくてもいいと思うけどな」
「でも、そういうのもたまには必要じゃない。彩り? アクセント? んー、もうちょっと軽いニュアンスなんだけど」
「軽い気持ちで時を戻すなよ」
「違うよー。軽いのは気持ちじゃなくて、ニュアンスの方だってば」
意味不明な弁明だが、己に不都合ななんらかの事実を隠そうとしているがために支離滅裂になっている、というふうではない。要するに、いつも通りに意味不明。妻はこちらの世界で生きているときから、天然というか、いい加減というか、そういう一面を持っていたが、あちらの世界に行ってもそれは健在だ。
「明日は美術館だから、今度こそ弁当頼むぜ。楽しみにしてるから」
「任せておいて。絶対に美味しいやつを作るから。龍くんの好きなおかずばかり入れて、ごはんには最低二種類ふりかけをかけて」
「ところで、俺になんの用?」
「えっ。なんでそんなこと訊くの?」
「暇かって訊いただろ。どう考えても、俺になにか用がある人間のセリフじゃないか」
「あー、うん。暇だから、龍くんになにかお話してほしいなって」
「話? 俺が? お前が俺に話があるんじゃなくて、それが用ってこと?」
「うん、そう。女の子は受け身だから。するよりしてほしいの」
「お前なあ。女の子って言っても、今年で三十だろ」
「そこは突っ込まなくてもいいよー。急に言われても、ネタがない?」
「ネタのあるなしじゃなくてさ、こっちは昼飯作ってる最中なんだけど」
シンクとコンロの間のスペースには、二個の鶏卵、一揃いの菜箸、一枚の小皿が用意されている。スクランブルエッグならすぐに作れてすぐに食べられるのに、先延ばしにされているのだと思うと腹立たしいが、妻になにを言ってもどうせろくに聞きはしない。こちらから電話をかけることはできないのだから、この機会にしっかりと話をしておきたい、という気持ちもある。さらに言えば、死ぬほど空腹というわけではない。
「あっ、そうだったんだね。ごめん、ごめん」
「いや、一回言ったからね。スクランブルエッグを作ってるって、ちゃんと言ったぞ。確かに言った」
「でもわたし、今凄く暇なの。龍くんがわたしのためにお話してくれたら、死ぬほど嬉しいんだけどなー」
「本当に自由だよな、お前は」
勝手だよな、と言いそうになったが、咄嗟にポジティブな響きの単語を選択した。言葉の選び方一つで不機嫌になる女ではないが、そうだとしても、このくらいの配慮はするべきだ。それとも、榊さんの長話に嬉々として付き合った後ろめたさがそうさせるのだろうか。
「しゃーねーな。じゃあ、ちょっとだけなら話してもいいよ」
「楽しい話? 悲しい話?」
「んー、他愛もない話。買い物に行く途中で、榊さんにばったり会って立ち話をしたんだ。例によって長かったんだけど」
「あっ、そうなんだ」
榊さんの名前を出しても、声の調子や、伝わってくる空気に変化は生じない。こちらの世界での俺の行動は筒抜けだから、驚きはないということなのか。榊さんはお喋りが好きだから、顔見知りと話し込むことは普通、たとえそれがわたしの夫である龍くんだとしても、わたしはなんとも思いませんよ、ということなのか。
「榊さんがなにを話していたのかを話そうかな。話してくれた内容をそっくりそのまま伝える形になるけど、それでいいなら」
「うん、いいよ。ていうか、聞きたい! 榊さんとは最近全然話せてないもん」
そりゃそうだろう、と思ったが、口には出さないでおく。
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