こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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『ごめん、明日は予定入ってるから無理』

 我ながらそっけないメッセージを送信し、飲み会で知り合ったばかりの女からの誘いを断った。妙齢の異性からの誘いを一片の躊躇いもなく拒絶する――俺史上、前代未聞の事態といっていい。
 どうしても外せない用事とは、未来の妻とのデートのこと。

 異性とはこれまで、どちらかと言えば浅い付き合いに終始してきたが、初めてとなる例外が、未来の俺の妻となるあいつだった。要因は様々あるが、煎じ詰めれば、気安く付き合えるのが心地いいこと、これに尽きる。
 どうやら俺は、精神年齢が低い女の方が相性がいいらしい。

 庇護欲が強いだとか、面倒見がいいだとか、自分よりも弱い立場の人間を置いて安心したがる傾向があるだとか、そういうことではない。一緒になって馬鹿をやるのが好きなのだ。俺はあいつのことを、ガキだ、ガキだと、事あるごとに評してきたが、俺が思っているよりも知能レベルの差は小さいのかもしれない。

 あいつとの付き合いも、なんだかんだで一年が近づこうとしていたが、結婚について考えたことは殆どなかった。
 俺は当時、三十の坂に差しかかる目前。両親からそれとなく急かされたりもしていたのだが、親しくしている女性がいると明かすのではなく、「はいはい」と聞き流すという対応をとってきた。もし結婚するならあいつかな、という思いが過ぎることはあっても、あいつと結婚したい、という積極的な気持ちはなかった。あいつと楽しくやれる日常が続くなら、結婚とか夫婦生活とか、そういう煩わしいのは無理にいいや。アラサー男の姿勢としては褒められたものではないかもしれないが、それが率直な思いだった。

「ああ、そうそう。わたしたち、そろそろ結婚とかどうかな」
 だから、デートの最中に突然そう告げられたときは、開いた口がしばらく塞がらなかった。

 タウン誌の今月号で紹介されていたレトランでランチを終えて、雨の中、傘を差しながら帰宅している最中だった。直前に交わしていた会話は、次に食べに行く店はどこにするか、というもの。結婚やそれに関連する話題は一切出ていなかった。
 あいつは突飛なことを口走り、俺を困惑させる常習犯だ。広い意味での心構えならば、できているつもりだった。しかし、結婚関係の話題を積極的に発言したことはなかったので、不覚にも戸惑い、さらには軽く狼狽してしまった。

「ん? どうしたの、龍くん、そんな間抜けな顔して。口を開けてると虫が飛び込んでくるよー」
「雨だから虫は飛んでないんじゃないか。……いや、そうじゃなくて」
 拳を口に宛がって空咳を一つして、気を取り直す。

「さらっと言ったけどさ、それ、マジで言ってるわけ」
「うん、マジ。わたし、経験あるもん。自転車に乗っていたんだけどね、口を開けて坂道を疾走していたら、前から飛んできた虫が――」
「違う! その前の発言だよ。結婚だよ、結婚」
「あ、そっちね」

 ああ、はいはい、というリアクション。一見わざとらしいが、あいつは即興で演技ができるような女ではない。こちらの機嫌によっては癪に障ることもあるが、当時の俺はそれどころではなかった。
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