こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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 妻からの電話がないまま世界が暗くなる。俺は時の流れにただ身を任せる。窓外の闇が徐々に深まっていく。時間の経過ではなく、観測者の気分によって変化が推移している気がしてならない。

 午後の十時も過ぎて、この時間帯だと榊さんも外出しないだろうということで、自宅を発った。行き先は二十四時間営業のスーパーマーケット。最寄りの二十四時間営業ではないスーパーよりも十分近く長く歩かなければならないが、後者の営業時間は一時間前に終了している。
 然るべき売り場に当然のごとく陳列されていた、一パック十個入りの鶏卵のみを購入して店を出る。行きも帰りも、榊さんに出くわさないかと周囲を警戒しながらの歩みとなったが、杞憂に終わった。神経質になりすぎた自分が馬鹿らしくなったが、これも済んだことだ。

 平常通りに夜のルーティンをこなし、真っ暗な寝室の広すぎるベッドに潜り込んだところで、三回目の二十八日に俺は榊さんと約束を交わしていないから、明日は一人で美術館に行くのだ、ということに気がついた。
 いや、嘘をつくのはやめよう。気がついてはいたが、その事実にここに来て初めて向き合った。

 興味もない絵画を鑑賞しに一人で美術館。お喋り好きな美人のご近所さんと一緒に美術館。並べてみると雲泥の差だ。煎じ詰めれば、一人で行くか二人で行くかの違いに過ぎないが、榊さんという個人の魅力度が高すぎるせいで、たった一人の違いが月とスッポンほどの格差に拡大している。

 計画が潰れて、初めて分かった。
 俺は榊さんと一緒に米津国際美術館に行きたかった。拒む理由が特に見当たらなかったのでも、榊さんの熱意に押し負けて了承の返事をしてしまったのでもない。榊さんと一緒に行きたかったからこそ、俺は了承したのだ。

 妻があちらの世界へ行ってしまってから、はや二年。極めて特殊な形ではあるが、妻とコミュニケーション自体はとれている。あちらの世界へ行ったのがきっかけで妻が嫌いになったわけではないし、それは妻も同じのはずだ。
 以前と比べて、コミュニケーションをとるにあたっての自由度が下がり、それにストレスを感じているのは確か。その影響も一因となって、夫婦の間で会話を交わす時間が減り、このままではまずいんじゃないか、と思うことがある。それも確か。
 しかしながら、なにも妻に替わる新たなパートナーを欲したわけではない。妻との会話にストレスを感じるようになったのは確かだが、夫婦関係に直接的な悪影響を及ぼす規模のものではなかった。

 しかし、榊さんとの美術館行きがなくなったことに対する己の感情を直視すると、浮気願望を秘めていたことを認めざるを得ない。積極的に女を求めるほど強い欲求ではなかったが、身近にいる魅力的な女を看過できるほど弱くもなかった。要するに、そういうことだったのだろう。

 今ならば断言できる。榊さんに遭遇するたびに妻に話し相手を任せ、妻が不在になってからは榊さんを極力避けてきたのは、浮気願望が刺激され、膨張し、一線を越え、榊さんとの仲を深めるための具体的な行動に踏み切ることを、潜在的に恐れていたからだと。

 このさいだから、ぶっちゃけよう。
 俺は榊さんが好きだ。妻があちらの世界へ行ったのを機に好意を抱くようになったのではなく、知り合った瞬間から。
 妻を凌駕する存在という意味での好き、ではない。言い方はこれ以上ないほど失礼だが、二番手。妻と結婚していなければ、この人と結婚したかったな、結婚できたら幸せだろうな。そんな自分本位な妄想の揺るぎないヒロイン、それが榊さんだ。

 知り合ってからずっと、榊さんは俺の中でそのポジションにいた。不動の二番手だった。妻という絶対的な存在が常に隣にいたし、妄想を逞しくすることで欲求不満は解消されていたから、想いがそれ以上深まることはなかった。いい意味で安定していた。

 それが、妻があちらの世界に行ってしまったのを機に、俺の中での妻と榊さんの上下関係が揺らぎ始めた。気軽にコンタクトをとれないし、超常的な力を俺に断りもなく行使して日常を乱す。妻の地位が下がったことで、榊さんに意識を向ける回数と時間が増加し、結果として榊さんの真の魅力を発見した、と説明すればいいだろうか。より正確性を追求するならば、認識済みだった美点がことごとく上方修正されていった、と表現するべきか。俺が気づかないうちに、榊さんは不動の二番手ではなく、妻の地位をおびやかす存在になっていた。

 二度目の二十八日の朝に長話に応じたとき、恐らくはあれが、俺の中で榊さんが妻を初めて上回った瞬間だったのだ。無理に買う必要のないプリンをコンビニエンスストアへ買いに行ったのだって、プリンが食べたくなったからとか、だらだらと一日を終えるのが嫌だったからということではなくて、榊さんに会えたらいいな、という願望が無意識に働いた結果だったのだろう。

 正真正銘の偶然ながらも、夜道で榊さんに出会った。そして、米津国際美術館へ一緒に行く約束を交わした。
 それが、妻が時間を巻き戻したために、約束はなかったことになった。
 そして現在、俺はベッドの上でいらいらしている。寝息を立てる代わりに腹を立てている。榊さんという、逃がした魚の大きさに歯噛みし、地団太を踏んでいる。
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