こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

文字の大きさ
35 / 63

35

しおりを挟む
 二日連続で時間を巻き戻されたとなると、どんな馬鹿でも、目覚めるとただちに本日の日付を確認する。
 ヘッドボードのスマホを確認すると、四月二十九日六時五十二分。さすがの妻も、俺の心の中を読むのは不可能だったらしい。あちらに世界に行くのと比べると圧倒的に簡単にも思えるが、あいつは多分、己の意志であちらへ行ったわけではない。

「おっ」
 一階に下りると、ダイニングテーブルの上に、ウルトラマンのイラストがプリントされた包みが置かれていた。うっすらと漂ってくる食べ物の匂いの発生源は、十中八九などという慣用句を用いるまでもなく、ウルトラマンの包み。傍らには黒一色の水筒もある。持ってみると、液体が満杯入っている重みが感じられた。同じ日を三回連続で味わう遠回りを経て、米津国際美術館へ行く許可が漸く下りたというわけだ。

 振り回されたことに対する憤りはあったが、振り回される事態に終止符が打たれたことに対する安堵の念がそれを上回った。
 しかし、美術館行きの準備が整うに従って、というよりも出発の時刻が近づくにつれて、ゼロだったいらいらがぶり返し、じわじわと勢力を増し始めた。
 俺は美術全般に興味がない。一人で行くよりも、榊さんと二人で回った方が絶対に楽しいひとときを過ごせる。なのに、なにが嬉しくて、一人で美術館なんかに行かなきゃいけないんだ?

 話をしてみた限り、榊さんは美術に造詣が深いわけではないらしい。ただ、サンタクロースの袋の中身のように多くの話題を持っている人だから、なにを見ても興味深い話に繋げてくれるのではないか、という期待感がある。
 たとえば、一個のレモンを写実的に描いた静物画が展示されていたとしよう。俺はその絵の作者である画家の名前は知らないし、芸術的な価値があるとも思えない。一人だったならば、二秒で観賞を切り上げて先へ進んでもおかしくない場面で、榊さんは、学生時代に読んだ梶井基次郎の『檸檬』について語り始める。もしくは、目の前の絵と似た構図の絵に言及する。あるいは、過去に食べたレモンを使ったスイーツに話が飛ぶかもしれない。いずれにせよ、「ただのレモンの絵じゃん」ではきっと終わらないはずだ。

 それなのに。
 それなのに、妻の嫉妬のせいで、俺一人で行くことになった。絵なんて興味もないのに。レモンの絵を「ただのレモンの絵じゃん」としか評せない人間だというのに。
 なんてアホな真似をしてくれたんだ、あいつは。いいだろうが、ご近所さんと一緒に美術館へ行くくらい。興味のない施設を少しでも楽しく見て回ることの、なにがいけないって言うんだよ。

 感情をぶちまけたい欲求はあるが、こちらから電話をかけることはできない。妻はこちらの世界の状況を把握しているはずだが、どんな思惑があるのか、電話をかけてこようとはしない。
 だからといって、美術館行きを拒んだり、榊さんに一緒に行く道を模索したりすれば、妻はまたもや時を巻き戻すだろう。俺が次に生きなければならないのは、四度目の四月二十八日か、二度目の四月二十九日か。いずれにせよ、何度も同じ一日を過ごして寿命を無駄遣いするなんて、まっぴらごめんだ。

 妻の意に反する行為を実施すれば、超常的な力によって是正される。異議を唱えようにも、電話は妻が望むタイミングでしか繋がらない。
 ……なんだよ、これ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

処理中です...