こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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 暗号が解けた? 真逆だ。正反対だ。
 なんなんだよ、大変なことって。
 その問題について思案したい欲求はあったが、状況がそれを許してはくれない。場の空気が緩和されたのを契機に、榊さんがお喋りを再開したのだ。

「猫は犬とは根本的に違う生き物だから、その手の話を聞くと、まず虐待だと疑うでしょう。虐待という表現はきつすぎるかもしれないけど、要するに、その猫の意志を無視して無理矢理やらせているんじゃないか、と。でも、その猫ちゃんはどうも違うみたいなの。私も一度だけ見に行ったんだけどね、明らかに自分の意志でお手をしていたわ。なにかにじゃれついて前足を出しているところに飼い主が手を出して、『はい、お手をしました』みたいな強引な感じじゃなくて、飼い主が手を出してから前足を出すの。えーっと、名前はなんだったかな。忘れちゃったけど、とにかくそのサバトラちゃんは――」

 榊さんは親戚が昔飼っていたという、犬のようにお手をする猫について語っている。途切れるまでの話題を引き継いだのではなく、いきなりその話になったので、面食らってしまった。榊さんからすれば珍しい話の展開の仕方だが、語り口が巧みで耳に快いので、違和感は瞬く間に均され、ゼロに等しいものと化す。
 広義の虐待の結果のお手ではないかと疑い、親戚宅を訪問したさいに検証した模様を語る横顔と語調からは、榊さんが動物好きであることが窺える。旅行に出かけるのが好きで、特に関心があるわけではない美術館を外出先に選ぶ彼女にとって、言葉が通じない動物というのは、好奇心を大いにくすぐられる対象なのだろう。

 動物が好き、子供に優しい、高齢者に親切。弱者に寛大な人物に好感が湧くのは、老若男女共通だ。俺もその御多分に漏れないが、先ほどの妻からの電話による心理的圧力が邪魔をして、心から微笑ましい気持ちにはなれない。だからといって、榊さんの長広舌に向き合うことを疎かにはできないので、意味深な発言の真意について、腰を据えて思案することもできない。

「どうしてもマイナスイメージがつきまとうけど、私たちと比べて特別貧しいとか、劣っているとか、そういうことでは――」

 話題は北朝鮮の庶民の暮らしに移行している。「あの国のことは、テレビで見る範囲内の知識しかないけど」と一言断ったのは聞いたが、いつの間に切り替わったのだろう。結局、お手をするサバトラは虐待を受けていたのか、受けていなかったのか。
 全ては曖昧なまま、榊さんは近くて遠い北朝鮮の人々の生活に思いを馳せ、バスは米津国際美術館までの距離を着実に縮めていく。
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