こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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 県道をひたすら北進するバスは、ちょうど道のりの半分あたりで空港に寄り道し、何人かの乗客を吐き出した。乗り込む者はいない。もしかするとこの停留所で人が雪崩れ込んでくるのかな、と予想していたのだが、違ったようだ。

 ナントカというアーティストが美術館でライブを行って以来、来館者数が激増した、という話だった。しかしこれまでのところ、吊革に掴まる乗客が四・五人出たのが最大人口密度。現在は二・三人が座れる余地を残すという状況で、混雑という表現は適当ではない。
 もともと利用客が少ない路線で、「混雑した」というのは相対的にという意味なのか。もう少し進めば乗客が増えてくるのか。休日ではあるが、なんらかの要因から今日は特別に乗客が少ないのか。初めて乗った立場の人間に断言できることはなに一つない。

 空港で下りたのは、大学生と思しい四人組。彼らは他の乗客の迷惑にならない程度に賑やかに喋っていたので、車内は一気に静かになった。さり気なく窺ったところ、俺たちの後ろの座席の老夫婦は居眠りをしているらしい。最後部の席の北京語だか広東語だかを話すグループは、笑い声を交えずに淡々と会話している。言葉の意味が全く分からないので、話し声というよりは音楽を聞いているようだ。

 県道に復帰したバスは、閉鎖されたボウリング場の前を通過し、短い橋に差しかかった。榊さんは口を開かない。空港を出たあたりから押し黙り、以降はその状態が保たれている。視線の方向は一貫して窓越しの野外。川に橋と、景色が大きく変わったにもかかわらず無言ということは、意識的に口を噤んでいるのだろうか。
 川の両岸にはなんの変哲もない民家が建ち並んでいる。遠くに工場らしき白い外壁の建物が見え、高い煙突から白煙が盛んに吐き出されている。日本国内に限定したならば、一市町村に一か所はありそうな景色。会話のきっかけになりそうなものはどこにもない。

 あっという間に橋を渡り切った。上手い具合に進路の信号が青になるので、バスは滞りなく進む。
 恐れている妻からの二度目の電話は、今のところない。

 妄りに連絡を入れて榊さんとの時間を邪魔するつもりはない。言葉の意味は龍くんが自力で解き明かして、龍くんが最善だと考える対応をとってください。そういう意味なのだろうか?
 分からないならば、本人に訊いてみればいい。
 こちらからコンタクトをとれないならば、あちらから電話をかけてこざるを得ないように仕向ければいい。

 榊さんは首から上を車窓に向けて窓外の景色を眺めている。表情は真顔に近く、なにかについて考えているらしい気配が読み取れる。シリアスな問題について思案を巡らせているのか、些細な問題について取り留めもなく考えているだけなのか。

 警告したにもかかわらず、夫が妻以外の女に故意にちょっかいをかけたとすれば、妻としては当然、愉快には思わないだろう。実行に移したが最後、夫婦関係は取り返しのつかない事態に発展するかもしれない。

 本当にいいのか?
 自問したが、問われた自分は答えを返さない。

 榊さんは膝を揃えて座り、十指を自然体に伸ばした両手をその上に置いている。一時間以上バスに乗っていなければならないのだから、姿勢を崩すのが普通なのに、葬儀の参列者のように端然と座っている。それでいて、姿勢よく座ろうと意識した姿勢特有の、窮屈な緊張感は醸されていない。

 本当に、本当にいいのか?

 短いが濃厚な葛藤を経て、俺は覚悟を固めた。
 大胆に不躾に左手を伸ばし、指先で軽く押すように太ももに触れた。
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