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「六年前の真夏のことでした。その日は夫にとって久しぶりの休日で、夫が家でゆっくりくつろぎたいと言ったので、私一人で夕食の買い出しに行ったんです。
買い物を済ませて帰宅して、リビングのドアを開けると、彼の姿はありませんでした。几帳面な性格の彼は、部屋を長く離れるときは家電製品の電源を切るのですが、エアコンはつけっぱなしになっていました。普段であれば、ちょっとした用事があって、少しの間自室に戻っているのだろうと解釈するところなのですが、そうではない、とそのときの私は思いました。上手く言えないのですが、なにか大変なことが起きてしまったような気がして、その場から一歩も動くことができませんでした。
すると、ハンドバッグの中で携帯電話が震え始めたので、直感的に夫からだと思いました。取り出してみると、画面は真っ暗にもかかわらず、携帯電話は震え続けています。
不思議と怖さはありませんでした。耳に宛がって『もしもし』と言うと、案の定、夫からでした。今どうしているのかと尋ねてきたので、買い物から帰ってきたところだと答えたあとで、彼が置かれている状況と安否を問い質しました。私としては理性的に振る舞ったつもりなのですが、『なにか大変なことが起きた』という思いは健在だったので、感情的に捲し立てるような喋り方になってしまったかもしれません。
常に沈着冷静に振る舞い、理路整然と受け答えをする夫にしては珍しく、説明は支離滅裂でした。会話が噛み合わず、なかなか前に進みませんでしたが、やっとのことで聞き出せたのが、夫はあちらの世界と呼ばれている世界に現在いる、という情報だったのです」
あちらの世界に行った人間は、あちらの世界の詳細をこちらの世界の住人に語ってはならないというルールがある。加えて、あちらの世界へ行ったばかりで混乱していたせいで、榊さんの夫の説明は要領を得ないものになった。そういうことだろう。
俺の妻はもともといい加減な性格だったから、意味不明な説明をされても、俺は混乱と当惑から比較的早期に抜け出せた。しかし榊さんの夫は、榊さん曰く「常に沈着冷静に振る舞い、理路整然と受け答えをする」――要するにしっかりとした人だ。その夫が、不可解に部屋から姿を消したと思ったら、電話越しの会話で意味不明な言葉を重ねたのだから、榊さんの困惑と不安は筆舌に尽くしがたいものだっただろう。声が同じなだけの、全くの別人と話をしているような感覚だったかもしれない。
「その日得られた事実はそれだけで、通話を切ったのは夫の方からでした。すぐに夫の携帯電話にかけたのですが、不通で、夫からかけてくるしかコンタクトをとる方法がないのだと悟りました。『僕のことは心配しなくていい』という意味のことを言っていたので、不安はもちろんありましたが、普段通りの生活を送りながら夫からの連絡を待ちました。
再び電話がかかってきたのは、翌日の夜十時過ぎ。前日に訊けなかったことをいろいろと訊いたのですが、明言はしなかったんですけど、どうもルールのようなものがあるらしくて。あちらの世界というのは具体的にどんな場所なのか、こちらの世界との違いはなにか、といったことについては全然教えてくれないんです。
ただ、二重の意味で楽な暮らし、つまり、楽しくて、気楽な生活を送っているということは、会話を交わす中で伝わってきました。生真面目な人なので、こちらの世界で負っていた諸々の義務から解放されて、ほっとしたんだと思います。私との結婚生活を苦痛に感じていたわけではない、とは言っていましたけどね」
榊さんは控えめながらも誇らしそうに微笑んだ。しかし、それもほんの数秒で消えてしまう。
買い物を済ませて帰宅して、リビングのドアを開けると、彼の姿はありませんでした。几帳面な性格の彼は、部屋を長く離れるときは家電製品の電源を切るのですが、エアコンはつけっぱなしになっていました。普段であれば、ちょっとした用事があって、少しの間自室に戻っているのだろうと解釈するところなのですが、そうではない、とそのときの私は思いました。上手く言えないのですが、なにか大変なことが起きてしまったような気がして、その場から一歩も動くことができませんでした。
すると、ハンドバッグの中で携帯電話が震え始めたので、直感的に夫からだと思いました。取り出してみると、画面は真っ暗にもかかわらず、携帯電話は震え続けています。
不思議と怖さはありませんでした。耳に宛がって『もしもし』と言うと、案の定、夫からでした。今どうしているのかと尋ねてきたので、買い物から帰ってきたところだと答えたあとで、彼が置かれている状況と安否を問い質しました。私としては理性的に振る舞ったつもりなのですが、『なにか大変なことが起きた』という思いは健在だったので、感情的に捲し立てるような喋り方になってしまったかもしれません。
常に沈着冷静に振る舞い、理路整然と受け答えをする夫にしては珍しく、説明は支離滅裂でした。会話が噛み合わず、なかなか前に進みませんでしたが、やっとのことで聞き出せたのが、夫はあちらの世界と呼ばれている世界に現在いる、という情報だったのです」
あちらの世界に行った人間は、あちらの世界の詳細をこちらの世界の住人に語ってはならないというルールがある。加えて、あちらの世界へ行ったばかりで混乱していたせいで、榊さんの夫の説明は要領を得ないものになった。そういうことだろう。
俺の妻はもともといい加減な性格だったから、意味不明な説明をされても、俺は混乱と当惑から比較的早期に抜け出せた。しかし榊さんの夫は、榊さん曰く「常に沈着冷静に振る舞い、理路整然と受け答えをする」――要するにしっかりとした人だ。その夫が、不可解に部屋から姿を消したと思ったら、電話越しの会話で意味不明な言葉を重ねたのだから、榊さんの困惑と不安は筆舌に尽くしがたいものだっただろう。声が同じなだけの、全くの別人と話をしているような感覚だったかもしれない。
「その日得られた事実はそれだけで、通話を切ったのは夫の方からでした。すぐに夫の携帯電話にかけたのですが、不通で、夫からかけてくるしかコンタクトをとる方法がないのだと悟りました。『僕のことは心配しなくていい』という意味のことを言っていたので、不安はもちろんありましたが、普段通りの生活を送りながら夫からの連絡を待ちました。
再び電話がかかってきたのは、翌日の夜十時過ぎ。前日に訊けなかったことをいろいろと訊いたのですが、明言はしなかったんですけど、どうもルールのようなものがあるらしくて。あちらの世界というのは具体的にどんな場所なのか、こちらの世界との違いはなにか、といったことについては全然教えてくれないんです。
ただ、二重の意味で楽な暮らし、つまり、楽しくて、気楽な生活を送っているということは、会話を交わす中で伝わってきました。生真面目な人なので、こちらの世界で負っていた諸々の義務から解放されて、ほっとしたんだと思います。私との結婚生活を苦痛に感じていたわけではない、とは言っていましたけどね」
榊さんは控えめながらも誇らしそうに微笑んだ。しかし、それもほんの数秒で消えてしまう。
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